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「水中の哲学者たち」

「どんな人がタイプ?」と聞かれたとき、「清潔感があってやさしい(寛容な)人」と答えることが多いけど、本当は心の中でもう一つ、「考えることをめんどくさがらない人」と呟いている。

でも実際には、ほぼ言ったことはない。この回答でわたしのめんどくささが滲み出る気がして、心に留めおく。

今まで好きになった人たちや仲良くしている友人たちは、趣味や性格はバラバラだけど、彼らの多くは考えることをめんどくさがらないなと思う。

わたしが「なんで◯◯なんだろう」「これの理由は◯◯かな」などと言い出しても、受け止めたり、考えたり、広げてくれる。彼らも、突拍子もない発想や、ふだんの疑問、関心、発見を話してくれる。ありがたい。

それでも、自分は自分を持て余しているし、めんどうくさいなと思っている。だから、他の人にそんな風に思われるのが、こわくて、恥ずかしくて、様子をうかがってしまう。ふがいないよ。

でも考えることはやめられない、やめたくない。

自分の“これ”となんとかうまく付き合っていく方法を模索しようと思っていたとき、永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』という本に出会った。

本当に読めてよかった。考えつづける勇気と安心感をもらえる内容でした。

“知る”も“考える”も難しくて、知れば知るほど考えれば考えるほど、わからなくなる。ときには足元がぐらつく。自分の要領が悪いからとか、めんどくさいからだと思っていたけど、何も不思議なことじゃないみたい。みんなそうなのか。エピソードとして出てくる人たちの言葉と姿勢から、切実さを感じて泣きたくなった。

永井さんの文章は、それこそ水に揺られているみたいに不思議な心地よさがある。曖昧なものを曖昧なままに、どれも正しくてどれも違う、行ったり来たり、ゆらゆら揺れて、考えつづける。そうやって気づけはどんどん潜っていた。ゆらいでいるのに、的確で論理的で、なんとも不思議な感覚になる文章。

「考えることで生まれる苦しさとどう上手く付き合っていけるのか」という問いを抱えて読み始めた序盤では、けっきょく他者とつながることでしか解決できないのか…?他者とつながれない人はどうしたらいいの?と思っていた。

でも、出版を記念したオンラインイベントで、「書くことも哲学である」という内容もお話しされていて、わたしがnoteで書いているのもまた、対話なのかと気づかされた。

そして、自分以外の誰かの話も聞きたいなと思う。

大きな成功体験とか武勇伝とか、オチのある笑える話とかじゃなくてもいい。書物に名前が残らない大勢の中のひとりでも、耳を傾けたい話がたくさんあることを、経験から知っている。

数年間かけて、100名くらいの方からとあるテーマで話を聞いたとき、漏れなく全員の人生の話が興味深かった。

「自分なんて。話すことはないよ」「何もすごい話はないよ。◯◯さんのほうがいいよ、あそこは成功しているし」という声を何度も聞いた。人様に話して聞かせることなんて、何もないと考えている人も多い。でも、ぽつぽつと話してくれたひとりひとりの歴史は、とても尊くて、大事なものを分けてもらったようで、帰り道に胸がいっぱいになることが何度もあった。

街のレストランでアルバイトをしていたこと、その当時の楽しみ、笑ったこと、悲しかったこと、辛かったこと、懺悔、夢、趣味、家族、思ったことなんでもいい。その一つ一つの上に今の自分は立っているんだなと思えたし、壮大に見える"歴史"というものは、多くの個人史の塊なんだと体感した。

一つでも多くの個人史を知ることは、歴史の解像度を上げることに繋がると思う。歴史の解像度が上がると、自分が立っている場所もより見えるようになる。そして、その個人史は永井さんが話す「哲学」とつながるような気がした。

そもそもそんな大きい話じゃなくて、わたしが知りたいだけなのかもしれない。わからないことが多すぎる世界の解像度を、少しでも上げたいのかも。

話が脱線してしまったかな…。これもゆらぎということて許してください。

またくじけそうなときは、そっとこの本を開こうと思う。


「水中の哲学者たち」永井玲衣
https://www.shobunsha.co.jp/?p=6703

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