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シュレーディンガーの猫

私の胸の内には「すべて吐き出したい」と「すべてこの胸に納めておきたい」という2つの相反する感情が、シュレーディンガーの猫のように存在している。
シュレーディンガーは、このパラドックスが人間の心理をも表せることに気づいていただろうか。


今、ここで、想うことのをすべて晒すことができたら、どんなにすっきりした気分になるだろう。
ペットボトルの水を飲み干し、逆さまにして滴った水が乾き、ただのプラスチックの塊になったら、そのまま何の躊躇もなくゴミ集積所の回収用コンテナにぽいっと捨てられるのに、無下に捨てることもできずに、きっちり蓋をされたまま、ボトルの中で水滴になってはまた元の水に戻るのだ。

アドバイスは求めていない。否定せず、ただ話を聞き頷くという無責任さも求めていない。
”よりそう” だとか ”味方だ” とか、そういうものも今はほしくない。
客観的で主観的で、鏡のように正確で、ナルシスが覗き込んだ泉のように曖昧に揺らめいて、私が望んでいるものを即答できるような、そんな都合の良い相手など、この世にいるわけがない。
ならば、この深淵に胸の内を留めておいた方が良いに違いない。


それでも何かにすがりたいのか、こんな抽象的で、ネガティブで、何の文学性もないこの記事を投稿したい衝動に駆られてしまう。


それでも猫はいつかこの箱から出たいらしい。
箱が開きさえすれば、自分が生きているのか、実体だけがここに横たえているのか、きっと猫は気づくことができる。
いっそ、私ごと猫になってしまえば、春のひだまりの下で、心優しい猫好きの青年に抱きしめてもらうことができるだろうか。

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