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亡き父が生まれた日

父のことが好きだったかと問われたら、完璧な満月のようにはならず、目に見えるほど欠けた月になるかもしれない。
良くも悪くも昭和の頑固親父だし、時に理不尽で、時に迷惑な程の過保護さに私は束縛されていると感じていた。
朝からあるいは仕事から帰ってきて不機嫌だったことも多く、今思えばモラハラと言えるものもあった。
特に病気をしてからの父は、毎日腫れ物を触るようにしていなければならず、その為に母は一時味覚を失ったこともあった。

私はそんな父に似ている。
顔立ちや髪質など外見的なこともそうだが、味覚に関しては母が呆れるほど似ている。美味しくないものを食べたときに不機嫌になるところまでそっくりだ。

そして父は手先が器用であった。
ある日、釣りから帰ってきた父は野良犬を連れてきた。当時、犬を外で飼うことが当たり前で、その犬のために設計図も書かず犬小屋を作った。
私が使う福祉用具的なものも、「無いもの作る」と言って1日からせいぜい数日あれば完璧に作れた。
モノを作る人に惹かれるのは、そんな父のせいもあるかもしれない。

父が他界してずいぶん経つが、ある日、私はふと思った。
いったい私はどのくらいの期間を父と共に過ごしただろうか。
私は幼少の頃に2年半程親元から離れて、生活しながら治療やリハビリを行う養護施設で暮らしていた。週に1回と夏季や冬季の休みには帰省できるものの、親にしたら引き裂かれる想いだっただろう。
その後、親のいわゆる大人の事情で10年程父と別居した。
会えないわけではなかったし、私たち父子はよく旅行に行ったり、時には父の部屋に泊まりに行ったこともあったが、友達との遊びの方を優先したい年頃の娘は父の誘いを何度も断り、電話に出ないこともたくさんあった。

つまり父と暮らしていない年月は結構長い間あったのだ。
父のいない家は精神的に楽な面もあったが、人には言えない事情を抱えて、私の心は少し曇りがちだった。
父が家に戻ってきた直後は、霧が晴れたような気さえしたのだ。
一方、夫婦の間にはいろいろあったようで、母は未だに父の文句を言っている。
娘である私は、父に対し、愛情だけではない複雑な感情もあるが、父は父なりに100%の愛情を娘に注いだに違いない。

今日は父の誕生日である。
もうこの世にはいない父には、何のプレゼントもできない。
ただ、私が日々を楽しく幸せに、そして父が亡くなった年齢を越えるまで生きることが親孝行だと思っている。

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