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「何度も」現れるきらいなひとは誰かに似ている

▼前回

友人AはなぜBから距離を置かなかったのか?
こんな友人なのに、友人だとか、同じ業界だから接点があるからだとか言って、SNSを見続けてしまうのか。
という理由が、別にある。

前回、こんなところで終わった。
今回はこれについて掘り下げてみる。

結論から書くと、友人AはBに自分の姉を投影している。
(カウンセラーの方や心理学を少し勉強した方には言わずもがなですが。)

きらいだ、いやだ、何度もそう言いながらAはわたしにBの話を繰り返す。
話の8割はいつもBのことだった。
" 執着 " そう言うと、わかってるとAは言う。

「ねー、Bって誰か似てるひといない?お母さんとか、、、、」
Aはすぐに答える。
「あー、おねえちゃんだ…」

お姉ちゃんばかり、みんなに可愛がられる
大学に行ったくせに、甘えていて、今も何もしていない
どんなにがんばっても、わたしは認めてもらえない
わたしは両親の負担になると思って大学も諦めてたくさん働いてきた
病気だからと、気分で当たり散らしてくる
あんたばっかりずるいといって、わたしのものを取ろうとする

次々と、溢れ出る言葉。

わかってるんだけどね、と彼女はいう。
そして、わたしには、何でも話せるといってくれる彼女は愛おしい。

自分でわかっていることと、人に話せることは違う。

自分でわかっているとき。
そのとき、大抵のひとがそのことを「頭で」理解していて、大人になれない自分やそのことを許容できない自分をどこかで責めている。
その記憶を思い出すとき、同時に自分はだめだ、という思考が気持ちを押し込める。
そして、自分に我慢をさせ、がんばらせる。
けれどがんばって結果が出せたとしても、ほっとできる日は来ない。
何もできない自分を許容できないままだから、終わらない。

そんな「だめな」自分を、カウンセラーに曝け出すことができない。
わたしもかつてそうだった。
以前、こんなようなことを書いた。

人に話せるとき、少なくともその目の前の人を信頼できている。
「このことで自分がこの人に嫌われることはない」
そう思えているはず。
ひとに話すことが怖い、それは嫌われるのが怖いからなのだ。
話してみて嫌われなかった、そういう経験が積めたら、次に進める。

少し脱線するけれど。
話す相手がいなくても、自分で自分を認めるという方法がある。
(というか、本当はこっちの方が本質的でよい。)
自分の中で知らぬ間にやっている「自分責め」をやめることだ。
小さなわたしを責めるのをやめて、傷ついた自分を認めて、かつての自分にかなしかったねと声をかける。

簡単にまとめると、こんなSTEPだ。
① 自分のきらいな人の原型を見つける
② なぜきらいなのか(自分が我慢してきたこと)を深掘りする
③ 誰かに話す / 小さな自分を認める(自分が悪くなかったことを納得する)
④ 元々の原因を解決する

④に入る前に、彼女(友人A)が自分を責めてしまった理由について書く。
「嫌われるのが怖い」の奥にあるもの。
それは、子どもがみんな持っている「お母さんが大好き」が根っこにある。

子どもはどんなお母さんでも、お母さんが大好きだ。
大好きなお母さんが自分のことを嫌いであることを認めるより、自分がだめなことにした方が傷つかない。
だから、かつて傷ついた子どもだったわたしたちは皆、自分を責めてしまうのだ。
それは、食事や睡眠といった生命線を握っている母親に嫌われるということは子どもの生命を脅かすという本能的な問題なのかもしれない。

友人Aの場合、姉を非難することは母親に嫌われる危険を孕んでいた。
本当は姉のように振る舞い、母親に甘えたい自分がいた。
けれど、同じようにして拒否されることが怖かったり、そんな母親を知ってしまうことが怖かったりして我慢を重ねてきた。
好かれるために努力してみたが、彼女の気持ちは母親に届かなかった。

きらいなタイプのひと、というのは大抵、こんな風に子どもの頃に刻まれた思い込みに端を発している。
そんなひとにいつもまとわりつかれる、とか逃げても逃げてもそんなひとが周りにいるというときは、自分の呪いを解くチャンスだ。

かつて子どもだったわたしには、その思い込みの檻の中が安全だった。
けれど、大人になった今、もうその思い込みは必要ない。
ありのままの自分で生きられるときが来たのだ。
それを、Bの存在はAに教えてくれている。

これが、「ひとは自分の鏡」あるいは「世界は自分が創っている」という言葉の持つ意味だ。

STEP④の行動について、書く。

家族と対峙することだ。
Aの場合は、「おねえちゃん」と直接話して自分の気持ちを伝えるとか、手紙を書くとか、そういうこと。
あるいは、母親に向けてかもしれない。

これは、できないと思うひとが多いんじゃないかと思う。
③と④は自分の気持ちを外に向けて話すという同じ行動なのだけれど、ハードルの高さが段違いだ。
わたしは20年、こんなちっぽけなことができなかった。
母親に自分の思っていることを全部言ったら、母親はショックで死んでしまうんじゃないかとすら思っていた。
けど、実際にはそんなことはなかった。

そう、小さなわたしが持っている爆弾かのように思える記憶は、大抵の場合単なる「思い込み」なのだ。
自分の理想通りではないかもしれない、けれど大抵の母親は大小はあれど子どもを愛しているものなのだ。

前回同様、結局のところ今回もブロック外しの話だった。
ブロックは、ありのままの自分を見せると嫌われる、というもの。
バンジーは、家族に自分の気持ちを伝える、ということ。
地味でつらい作業だったりする。
けれど、自分ひとりでできればお金は全然かからないし、きちんと成果が出る。

とっても長くなってしまったので終わります。

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