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探求 第2章(心の中のことば編(7))

ロボットに意識はあるか。

ふつう、「意識がない」とは、気絶していることだ。ぐったりして、目は閉じ、呼びかけても応答はない。

仕事中に眠そうな顔をしている人に「意識ある?」などと言ったりする。寒くて死にそうな場面で「意識をしっかり保て」と映画の中のヒーローは言う。

では機械に対して同様にそう問うてみよう。

滞りなく動き、こちらの呼びかけに応答し、機械なりの原理で行動しているのだから、それは気絶してない。

つまり当然のことながら、機械に意識はあると言わなくてはならない。

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しかし人は、このような答え方を、「ロボットに意識はあるか」という問いへの答えとは見做さない。

「そんな簡単な話しではない」と言わんばかりの不満足そうな顔をする。

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われわれは、人と機械とで、「意識」という語の適用の基準を暗黙の内に変更している。

そもそも機械に対して「意識があるかないか」を判断する基準など元より存在しない。だからどのような基準を適用しても「それはおかしい」と感じてしまう。

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したがって「ロボットに意識はあるか」も、やはり、問いではない。

それどころか日本語の有意味な文とも言えない。

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ここでもまず、答えが先で、問いは後だ。

エンジニアは、人の生活に溶け込むロボットを生み出だすことでこの問いに答えようとするだろう。

機械が気絶するとはどういうことかを人々が理解し、「意識」に新しい用法と意味が作り出され、やがて「ロボットに意識はあるか」など改めて誰も問わなくなるという結末で、答えは与えられることになるだろう。

答えるとは、人の新しい生活形式の創造そのものだ。

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一方で、わたしは、「何も生み出さない」ことで問いに答えなくてはならない。何かを一つでも主張した時点で、わたしは、失敗している。

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