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猫たち

 夜明け。美しき朝日。朝焼け。真新しい今日の始まり。新鮮な空気。遠い音のこだま。小鳥のさえずり。木々の息吹。目覚め。快適な目覚め。(何やら音。音。音。フジテレビ効果音ライブラリ6004番)深呼吸する私。たゆまない時の流れの感覚。私の隣でゆっくりと目覚める私のたったひとりの愛娘。わが家の猫たち。一つ息を吐くと私は言うのだ。おはよう娘よ、おはよう愛すべき猫たち、そしておはよう!世界中の仲間たち!

「なによこいつ」と猫1は言った。
「ずうずうしいわね」と猫2。
「最低。」猫3。
「ばっかみたい」と最後に娘。「『おはよう!世界中の仲間たち』だって。信じらんない」

「私にも!」と私はいった。目覚めの良い朝くらいあるのだ。そのくらい許して欲しい。少しくらい感傷的になったっていいではないか。これでもちょっとした大学くらいでて、登山部で今だに足腰は丈夫だし、まちこちゃんと一緒にうけた英検2級だってもってるぞ。それを「ばっかみたい」はないじゃないか。娘よ。猫たちよ。何といっても特別な朝なのだ。私がわざわざ早起きした理由は一体だれにあると思っているのさ。
「さあ」と猫1が言った。
「しったこっちゃないわよ」と猫2。
「どっかいったら」猫3。
 ひどい。あんまりだ。こんな仕打ち。恨めしいまだ暖かい布団。しかし私が子象みたいにおろおろしていると、そんなに悲しい顔しないで、パパ、と娘は言ってくれたのだ。これから大仕事が待っているんだもの、あたしたちそれで少し緊張しちゃってるのよ。昨日からずっと眠れなかったわ。パパが隣の寝室で「いとうさちお:心の演歌」をひっそり見てるときもずっと眠れなかった。だから少し酷いこといっても許して、ね、パパ。猫ちゃんたちも悪気はないのよ。もちろん私もね。みんな少しばかり変になっているのよ。なんといってもこれから、大仕事がまっているんだから。そうでしょ、パパ?
 そうだとも。さすが私の娘である。きちんと心得ている。それでこそ娘というものだ。
 では、と私は高らかに宣言した。では、はじめようではないか、陽のうららかなあのサンルームで。かの大仕事を?
「ブラボー」と猫2。
「やんや。やんや。」猫3。(トルコ行進曲)

 昨日、私が大画面迫力50インチテレヴィジョンで「濡れた天使2」愛しのまゆみちゃんを見ている時だった。
「ちょっとお願いがあるの」と娘は言ったのだ。「悪いんだけれど」
「何でもきいてあげよう、我が娘よ。」と私は言った。どうぞなんなりと。
「ナツメソウセキを読みたいのよ。ナツメソウセキ。分かる?学校のナツメソウセキ論文集にあたしが何か書かなくちゃいけなくなっちゃったの。」
「おいおい」と私はびっくりして言った。「小学2年生の君が『ナツメソウセキ論文集』に手を出すのは少々早すぎると私は思うのだが。我が娘よ。」
「その『我が娘よ』って言うのやめてくんない?ほんっとに。くそむかつくのよね。別にナツメソウセキでなくてもいいのよ。『イトウタダシ』でも『ナツカシキメイバタチ』でも『東京都発行:豊かな暮らしと住まいづくり』でもなんでも」と娘は少々いらいらしながら言った。「どれも同じなんだから」
 私は自分の無知を猛烈に恥じて赤面した。今の時代はやはり『東京都発行:豊かな暮らしと住まいづくり』なのだ、なんといっても。私は話題をかえようとした。
「ところで君の担任の陽子先生のことだが。『ナツメソウセキ論文集』執筆を君に依頼するとは慧眼だな。ただものじゃないぞ。さすがだ、さすが私の娘の担任だ。陽子先生は独身だな。違うか?私の意見ではそうなのだ。娘よ。」
「だからその『娘よ』はやめろっていってるでしょう、っとにむかつくわね。このもうろく親父!」

 そんな次第で私は娘の『ナツメソウセキ論文集』執筆を手伝うことになった。このような大仕事に私が口だししても良いものだろうか。もちろん良いのである。私も作家のはしくれとして一言くらい、いや二言くらい言わせてもらっても良いはずなのだ。なにせ海千山千の相手をばったばったと切り倒して来た私である。君らの作文の添削くらいはできるつもりだぞ、きっと。

 以前の私には生への執着もあった。それは端的に良いものであり、それは、うつろいがちな人間が持ち続けるべき最低限の倫理とさえ思っていた。しかし受け入れ難く拒み続けてきた死さえも今や、受け入れようとしている。祖母はよく言ったものだ。「死は悟るべきもの」と。確かにその通りだった。私がこれから記す物語は私の記憶である。この奇妙に青白いシーツのベットの上で私は最後の話を君に当てて綴ろう。この話を今まで誰にも、何処にも残してこなかったのは、話すことや書くことによって(どちらでも同じことだが)この物話の何かが失われてしまうことを恐れたからだ。しかし今となっては、そんなことはどうでも良いことなのかもしれない。

「もしかしてこれ、あなたの文章?」と娘は言った。
「まあね」といささか自慢気に私は答えた。「よかったら感想をききたいな。私のむすめとしての」
「ばっかみたい」と娘は言った。「ばっかみたい」
「頭おかしいんじゃないの」と猫1。
「一体自分をなんだとおもってるのかしら」と猫2、猫3。
 私は青ざめた。これはちょっとばかり私のジシンサクだったりするのだ。私が大切に温めておいたタンペンショウセツの出だしだったりするのだ。いやはや。最近の小学2年生のかわいらしい女の子と最近の猫たちはこんな出だしの小説すきじゃないんだろうか。
「まったくだめよね」と猫3。「なっちゃいないわ」と猫2。
「何か勘違いしてる気分。」と猫1。
 私はまたしても小熊のようにおろおろしはじめながら、「ココロ」やら「ワガハイハネコデアル」やら「メイアン」やら「シンチョウシャニホンブンガクジテン」やら何やらを参考資料の候補に推薦してみた。私の本棚にはこういうのがいっぱいなのだ。少しくらいお役に立てたらと思いまして。
「そんな聞いたこともない本いらないわ」と娘。「どうせ漢字読めないもの」
 私はあわてて言った。
「しかし一応読んでおいた方が良いと思う、あくまで私の意見だが。漢字は全部すっとばしてもわまわんよ、君は小学2年生だから。どうせ漢字で書いていることなんて重要ではないのだ」
「却下」と猫1。
「却下に賛成」と娘。
「うん私もそう思う」と私。

 かくして、サンルームに籠り続けた私たちはかの論文『ナツメソウセキ論文集序論』を三日三晩かけて書き上げた。もっとも猫たちはずっとけづくろいや散歩にいそしんでいたし、娘は娘で「数理哲学3月号」とユリイカなんぞを読み耽っていたが。
「そんなに面白いかね、娘よ」と私は聞いてみた。
「ええとっても!」と娘は笑いながら言った。笑う娘を見るのは私もだいすきだ。
「ところでその『娘よ』ってやめてくんない?っとに。わかってるとは思うけれど?」
「いやしかし」と私も弁明した。「『娘よ』とでも言わないと私がだれに呼びかけているか分からなくなってしまうだろう。なんといってもこの家には『猫たち』がたくさんいるからな。むしろある種の技巧上の問題なんだよ、ある種の。我が娘よ」
「理屈よね」と猫1。
「言い訳がましいわ」次に猫2。
「自分の筆力がないだけのくせして」猫3。「まるで私たちが悪いみたいな言い方するじゃないこの人。」
「うるさい!」と私はどなった。少し静かにしてくれ。集中できないじゃないか。

 でき上がった『ナツメソウセキ論文集』への序論はまずまずの出来映えのように思う。うん、まずまずだ。それは「かのナツメソウセキは」ではじまり「方法論の点から見ても」でつなぎ、「未完のまま病没した。」で終るのだ。的確な引用、多角的視点、韻を踏んだ修辞的表現、正直言うが私はこれを読んで感動した。感動してしまったのである。こんな論文またとあるまい。ネヴァーモア、である。どれどれ、と娘は言った。ふむふむ、と猫たち。そして言った。
「ばってん!」
 言うと思った。だが私はもうどんな言葉にも動揺するまい、と誓ったのだ。こんな論文を書き上げた私である。多少の酷評は甘んじて受けようではないか。君たちの誤読一つでこの輝きは失われないのである。この輝きは普遍的なのだ、ある意味で。ある意味で、この論文はすばらしのだ。グート!
 ところが彼女らの批評は想像を絶してひどかった。なんというか、もう、超法規的に痛ましかった。それはあんまりだ、と私は自己弁護した。そんなのむちゃくちゃだ。いくらなんでもそれはないだろう、それはいいがかりだ、と。しかし娘と猫たちの言葉はそんなのおかまいなしに続くのである。
「ばっかみたい」と娘。「ばっかみたい」
「最低。」と猫1。
「このていたらく」次に猫2。
「いったいなんなのよこれ」猫3。
「いちど痛い目にあったほうがいいのかしら」と娘。
「ぶざま」と猫1。
「どじったらないわ」次に猫2。
「いやはや。なんとも。」猫3。
「ふざけないでよ」と娘。
「醜悪」と猫1。
「さすがに恥ずかしいわよね」次に猫2。
「ちょっとこれは。どうにもこうにも。勘弁して。」猫3。
「なに考えてんだか」と娘。
「だっさ。」と猫1。
「しらじらしくって」次に猫2。
「まゆみちゃんのけつでも追っかけてたら」猫3。
 まだ続く。続く。続く。ほろり私の涙。私は泣いた。ひどいじゃないか。そんなにいうことないじゃないか。でもまだ続く。そして極めつけはこうだ。極めつけ。
「はっきしいってあたし、今日限りであなたの『むすめ』やめます。」と娘は言った。「情けなくって。ほんとにもう。反省なさい。」

(グスタフ・マーラーの葬送行進曲上昇形モチーフその1)
 ああ、ついに私はひとりぼっちになってしまった。むすめは私の才能に呆れ果てて出ていってしまった。なんてこった。帰ってきておくれ、娘(であったもの)よ。もう『娘よ』なんて言わないから。私にはおまえが必要なんだよ。猫たち、どこへいってしまったんだ。もう残り物のご飯なんて食べさせないから。だから帰ってきておくれ。私は寂しさを紛らわすために仕事をこなした。ありとあらゆる仕事を受けて、ありとあらゆる文章を書きまくった。仕事は不思議とはかどった。崇高な日本文学史だって書いた。こんなのへっちゃらなのだ。ナウなプルーストの批評だって書いてしまった。5000枚の物語も書いてしまった。カルヴィーノ論の講演まで引き受けてしまった。なんといってもへっちゃらなのである。しかし私は虚しい。たとえジョイスの言葉に宇宙を感じたって何だって、虚しいのだ。帰ってきておくれ、娘(であったもの)よ、そして猫たちよ。
 ある日、娘(であったもの)から速達が送られてきた。宛名には「パパへ」とだけ書いてあった。パパへ。最高である。素晴しい言葉だ。輝いている。これぞ言葉だ。娘(であったもの)はまだ娘だったのだ。私は送られてきた原稿の内容を貪り読んだ。貪り読んで、『ああ』といった。恥ずかしながらそれしか言えなかったのだ。ああ、これがナツメソウセキなのか。そうか、そうなのか、『これが、ナツメソウセキなのか』、と。

 パパへ。ろんぶんができたのでおくります。かんじはねこちゃんたちがかいてくれました。ねこちゃんたちはまあまあのできだといっています。パパのよりかはましだといっています。
 パパ。げんきですか。まだへんなぶんしょうかいてるんですか。わたしはげんきです。にんにん。かしこ。

カノ、ナツメソウセキハ
 こちらから、巨大な龍が出現したというニュースをお伝えします。伝統の大レースがありまして、距離は2000キュビットです。おはようございます。次はスポーツです。
 今日は文句なしの良い天気です。明日は今日よりもさらに気温が下がって仙台は12度になりそうな予感です。
 今回の事態ついては、全面的な戦争ではなくて、ま、ちょっぴりこまっちゃうんだよな、というのが政府の見解です。
 いや、やめて。ちょっと、やめてったら。いってるでしょ、いやだって。
 福島と仙台は昨日より2度高い12度となりそうです。
 大阪出身の花子編集部員はこの店を推します。みなさん来てくださいね。ホタテたこをこてこての大阪風にしたてあげ、お好みソースをつかうのよ。大胆な素材感覚とどちらも本当においしそうな、お好み焼です。若い女性大歓迎。
今日のお天気は良さそうです。
 夜の銀座の町にいへんが起きています。不景気にもかかわらず夜もやってます。いつもより多くね。いへんは至るところで起きています。もちろんです。
 じじいばばあは生活の何処に不便を感じているのでしょうか。あたしゃ毎日料理をつくったり洗濯したりするのが嫌だわ。ああ早く死にたい。天気は良さそうです。
 今日最高の運勢はさそり座です。みどりいろの小物がラッキーアイテム。前向きに行動してくださいね。魚座はだめかもしれません。

ホウホウロンノテンカラミテモ

 人間の話言葉を完全に理解します。足し算もできちゃうお猿ちゃんです。あたればごほうびです。ごほうび、なの、です。
 <以下ハノン・ピアノ教則本増補版-超絶技巧集-からの30小節に渡る28連譜の『切り抜き』。音符の総てに丁寧なぬり絵がしてある>
 数字の合計は39。3と9をたして12。1と2をたして3。これが39のデジタルルートであり、フランシス=ベイカーのヘブライシステムである。すくなくとも軽い精神障害がおこるし、最悪な場合には気が狂う。
 ぴーはまちこのぴーにぴーした。やめってたら!とまちこは言った。いや、止めん、断じて、と男はぴーした。
 各地のニュースをお伝えしたあと、お天気です。環境保護活動に変わりはありません。
 そんなところにごみを捨ててはいけません!チキューチキュー。ブラボー、チキュー、聞こえますか?私の声が?
 全国的に晴れるところがおおいでしょう。沖縄は雨が降るかもしれません。モスクワは絶望的です。サラエボは絶望的です。ベルリンは絶望的です。トーキョーも絶望的です。フクシマも絶望的です。きょはこれで失礼します。本当に失礼します。
それではさようなら。

ミカンノママ、ビョウボツシタ。ミカンノママ。ミカンノママ...

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