探求 第2章(心の中のことば編(2))

声に出さずに心の中で、「アーアー」と言ってみよう。

自分にだけは、確かに、その声が聞こえている。

とはいえ、他人に、その声は聞こえない。

そこに一人の人間が現れる。

---君のその「アーアー」は、本当に「アーアー」と言っているのかな? もしかしたら「ウーウー」の間違いでは?

---いや、確かに「アーアー」だよ。だって「アーアー」って頭の中で聞こえているもん

---でも僕にはまったく聞こえないし、もっと重要なのは、自分でそう強く思っているからといって、いつも正しいわけじゃないだろう。単なる思い違いということもあるじゃないか

---でも何度繰り返しても、どう考えても確かに心の中で「アーアー」と言ってるし、これが「ウー」だなんてありえない!

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例えば、心の中の「アーアー」に対応するある種の脳細胞が存在し、これが活性化していることと、「アーアー」は同一であると主張することもできよう。

脳細胞の活性化は技術の進歩によって外部から観察可能になりうるのだから、当人が強く確信している「アーアー」が、事実その通りかどうかという問題は、いずれ経験的に解決可能である、と。

このような主張は要するに科学的な話であって、あとはそのような対応がとれるか否か、といった実証の範疇といえる。

もちろん我々が考察すべきなのはこの種の話*ではない*

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われわれの言語では、それを言った、言わないという対立が生じうる。そしてそのどちらが正しいかを決めるための、様々な方法、たとえば第3者の証言を得るとか、録音するとかいった現実の諸手段が存在する。

一方で心の中の声には、「本当にそう言ったのか」とか「実は違う内容ではないか」といった疑いが(--したがってその疑いに対する反証が)起こりえない。これが我々の言語である。

したがって内語には、何らかの疑い得ない確からしさがあるのではなく、そこには「疑い」も「確からしさ」もはじめからパーツとして組み込まれていない。

「声にださずに心の中で話す」ということを、「声に出して話す」ことから音声だけを取り去った減算とみなしてしまうことから、(先の議論の)勘違いは生じている。

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・・・では、頭の中に響いているこの「アーアー」という内語を、君は幻聴だというのか? 確かに「アーアー」と聞こえている、この確からしさを君は疑うというのか??

・・・では、実際に君の頭の中で、音が空気を震わせて声が響いているとでもいうのだろうか。

ということは、「頭の中に声が響いている」は、一種の比喩ではないか。同様にきみは、「確からしい」とか「幻聴」という言葉も、一種の比喩として使っていることに気づいていない。

ここには「聞こえる」「確かめる」ということについての様々な条件(「聞き間違いかもしれないので友達と一緒に改めて聞いてみる」)が欠けている。

いってみれば欠陥のある部品で組み立てた動かない時計と同じだ。

歯車は複雑に噛み合って、一見時計の形をしているが、時を刻んでいない。

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歯車は、いかにして、時計の中で作用するのか。

ここに、ある文章が言語の中でどのような役割を果たしているかを観察するという、一つの方法論が存在する可能性がある。

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