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希死念慮の盛り合わせ

1  生の悦び

 私のそれは、明治や大正の文豪にありがちな、女と一緒に心中、ぼんやりとした不安から自死、といったお洒落なものではなかった。特に心中なんてごめんだ。支配し支配され、不本意に関係付けられることは人の宿命であり、そこに何らかの意味を見出すこと共生してきた。だから、死ぬときくらいは無意味に、呆気なく死んでいきたい。

 驚き桃の木山椒の木。実は、私は死んだ経験がないのだけれど、しかし、おそらくその瞬間が、何にも邪魔されずに世界をありありと味わうことができる最後のチャンスだと思っている。そしてきっとその時初めて、私は私を許すことが出来るのだろう。


2  焼け野が原

 邪魔だったので、善悪の彼岸を、なぎ倒した人々で埋め立て、その上を素足でひた走った。すると、併走していたはずの友人や、杖にしていた父母、祖父母らを置いてきぼりにし、気が付くと独りになっていた。

 私は足元にたくさんの死体が転がっていることに気付き、ギョッとした。見渡すと、あたり一面は焼け野が原だった。酷い。どうして、今まで気付かずにいられたのだろう。この事実は時折、数年に一度故郷にやってくる、あの小さな島が受け止めるには大きすぎる大型台風のように、孤独を忘れていた私を容赦なく襲う。
 そういえば昔、祖母が幼少の頃は戦時中だったので、死体の上を踏んづけ歩いて生き延びた話を父伝いで聞いたことがある。それを同じ土俵にあげることは到底できないが、しかし、人が生きる為に道を築くということは、得てしてそういうものなのだろうか。


3  箱舟

それにしても、本当に不思議だ。箱舟は決まっている。覚悟もある。それなのに、突然、天から伸びてきた一縷の不安が足に絡まったように、硬直してしまうのはなぜか。その不安の糸には、切りたくて仕方がないのに、否応なく受け入れてしまう魔力が宿っており、そういう時、私は一度も信じたことがない神に正解は何かと問いたくなる。それに奇遇にも、私の本名はキリスト教に関連するもので(由来ではない)で、なんだか、切っても切れない縁のようなものを勝手に感じてしまっている。
 ところで、私の好きな歌の歌詞に「波風立ていざゆこう 違っていい 尖っていい 同じ空の下」という歌詞がある。しかしこの頃、その歌に心を委ねるのが難しくなってきたのは、どこからともなくやって来た理性が、果たしてそうだろうか、と問いかけてくるからだ。知らなかった。私の細胞が私以外のものに、勝手に奪われてしまうなんて。知りたくなかった。私の信じていた私は、あまりにもちっぽけで、心もとない存在だったなんて。

 信じるものがないというのは苦しい。しかし、何か一つを盲信するというのもまた苦しい。趣味はあるし、まだまだやりたいこともある。寂しくなれば、故人に思いを馳せて心を満たすこともできる。多少は恋愛もした。甘酸っぱく、切なく、暖かったり、…殺意に身を焼かれたり。それなりに人を愛し、愛された。この先も、きっとそう。それでも、隙を見計らってはやってくる、だから何?それで?という暴力。大人たちから受け継いだ呪いたち。内臓から末端まで隅々を支配し、循環し続ける業。そして、左乳房と脇腹をチクリと刺す、この痛み。無視できずに、ただ立ち尽くすだけの時間が増えてきた。


4  銀杏

 この頃、街中が秋めいている。苦い思い出まで甦ってくる、あの匂い。

 はて、どうして銀杏が嫌いなんだっけ。

 きっかけは、平成十二年の一月に遡る。三歳の誕生日、お店で食べた茶碗蒸しに銀杏が入っていた。そして口に入れた瞬間、あの妙な食感と匂いに気持ち悪くなり、嘔吐してしまった。それから食べられなくなって、長年、トラウマになっていたのだ。だが、最近、意を決してお店の茶碗蒸しに入っていた銀杏を食べてみると、結構美味しかったので驚いた。鼻が詰まっていたのか、もしかすると、不味いと感じたこと自体が気のせいだったのかは分からない。例えば、子供の頃は外食が苦手で、その日は外食先で誕生日を祝うという特別なシチュエーションだったわけで、たまたまあの場で一致した悪条件のようなものがあり、それによって引き起こされた心情が銀杏の嘔吐という形で現れたと、そういう見方も出来なくはない。ちなみに、イチョウは平安時代に朝鮮半島から日本に伝えられたらしく、確かに言われてみれば、韓国ドラマのワンシーンにはイチョウが背景に映っていること多い気がする。

 それはそうと、大人になると、こうやって何かと根拠を探ったり、定義付けしたくなるのはなぜだろう。その瞬間にそれがこの身に起こった。ただそれだけが事実で、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに、安心したいがために欲しくなる。人はなんて矛盾した生き物だと、絶望し尽くしたと悟ったフリをしてみせても、反射的に確かなものを手繰り寄せたくなってしまう自分がいる。本当は、納得できる言語で、そのかけがえのないクオリアを囲い込み、縛り付けようとするなんてことは野暮というもので、今この瞬間だってそうなのだ。野暮なう 11:11 PM · Nob 3, 2023。


5  山

 今頃、あの山にも銀杏が生え揃っているのだろうか。

 以前、会社の上司が屋上を開放してくれ「ここ、いいでしょ」とそこから眺めた風景を思い出す。一番奥に富士山があり、手前には小高い緑の山々が並んでいた。住宅、電信柱、町一帯を照らす夕焼けに圧倒された私は漠然と、この景色を最期に出来たら、と願っていたように思う。
 今頃、あの小高い緑がポツポツと、小さな筆で色を置くようにカラフルに背景を染めていくところを想像すると、鼻の奥がツンとした。最近は、だいぶ気温差が激しくなってきたから、今夜は鍋にしよう。

 なぜ突然、山の話をしたのかというと、山が好きだからだ。ただドンと立ち尽くしているだけのように見えて、そこでは実に繊細で豊かな命のやり取りが行われている。一度も登ったことがないのに、よく好きだなんて言えるな、と自分でも思うが、根拠のない自信がある。好きだ。海も良いが、山も良い。ただそこにあり続けることの尊さに、いつまでも胸を締め付けられていたい。山には、海のような吸引力はない。しかし、強い吸引力で抱擁する力は、辛いときには心地良いが、そうでないときには少し怖くなってしまうのだ。

 そんなこんなで来月、登山デビューをする予定です。



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