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【書評】ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち

どんな本?

本書は、ビジネスパーソンに向けた教養論の現状を批判的に分析する一冊です。「教養」が自己目的化し、ビジネスのスキルアップや自己価値の向上に使われている現代社会の息苦しさを、新自由主義・自己責任論の影響に焦点を当てて明らかにしていきます。

「教養の教科書」「本物の教養」「教養としての〇〇」といったタイトルの本が書店の棚を占める光景に対し得体の知れない違和感を感じている人は、その正体について少なからず示唆が得られる本だと思います。


個人的感想(※ネタバレ注意)

「ファスト=悪」では無い

レジー氏が「ファスト教養」と命名した現象と類似するものに、「映画を早送りで観る人たち〜ファスト映画・ネタバレ−−コンテンツ消費の現在形〜」で稲田氏が詳しく論じている「ファスト映画」があります。

いわゆる教養として取り上げられるような文化的事物に限らず、アニメや漫画のようなエンタメにおいても同様の動きが見られることが分かります。

「ファスト教養」と「ファスト映画」に共通する動機は、タイパ(効率)良くある分野のエキスパートになりたいという願望です。こうした願望の生まれた背景として「ファスト教養」では新自由主義や自己責任論の影響を、「ファスト映画」ではエンタメコンテンツの過剰供給の影響を挙げています。

ただ、レジー氏も稲田氏も、「ファスト=悪」もしくは「スロー=善」という単純な主張は繰り広げていません。

知識の蓄積方法は多様にあって然るべきで、「ファスト教養」で言及されているような短いYoutube動画や、教養纏め本によってインプットされた知識が紛い物の知識であるとは言えません。

むしろ、未知の分野を探索する際に粗々でもその俯瞰図のようなものを頭の中に入れておくことは理に適っているようにすら思われます。

問題は「ファスト」ではないのです。

ファッション化した教養

近年、書籍、セミナー、オンラインコースなど、多くのメディアやプラットフォームで「教養」がキーワードとして取り上げられています。この現象は、「教養」が社会的な成功や満足につながるという期待感からくる部分が大きいと考えられます。

しかし、そのような状況下で「教養」の本質が何であるか、という問いに対する深い理解は必ずしも広まっているわけではありません。多くの場合、教養は単なる知識の蓄積や社会的ステータスの象徴として扱われがちです。その結果、教養の本質的な側面が見落とされることも少なくありません。

「ファスト教養」で提起されている問題は、一見「(Youtubeや教養の教科書などによって手軽に身に付けられる)似非教養 VS (長い時間をかけて身に付ける)シン教養」の二項対立の図式のようにも窺われます。

しかし本書で本当に問題提起されているのは「教養」への憧れを抱く一方、その本質を見究める態度を欠いたまま言葉尻を追いかけて満足している状態、つまり「教養」がファッション化されている状況です。

「ファスト教養」の著者のレジー氏はインタビューで次のように述べています。

「大前提として、優れた入門コンテンツや要約コンテンツはたくさん存在しますし、そういったものはどんどん活用するべきです。とにかく原典に当たれ、みたいな極端な話をしても仕方ないですし(笑)。今指摘したいのは、多くのファスト教養的なコンテンツが『学びの入り口』ではなく『これを読めばOKで、周囲と話を合わせられる』『この1冊、1本の動画で免許皆伝』という構造を持っているのではないかということです。その場でわかった感じを醸し出すことがゴールに置かれたコンテンツから、そのジャンルの深い世界に入り込んでいくような体験は起こり得るのでしょうか」

沼澤典史. "時短で学ぶ「ファスト教養」人気の問題点と、本当に仕事に効く良書の選び方". DIAMOND online. 2022-11-27.
https://diamond.jp/articles/-/312679, (参照2023-09-02)

社会的・文化的に高く評価された「概念」が、大衆に受容されることでファッション化し、本質的な意味が見失われていくというのはこれまでに何度も起きてきた流れです。

最近では「マインドフルネス」や「グリット」といった言葉も同様の道を辿ったのではないでしょうか。言葉って不思議ですね。

結局、「教養」とは何なのか

「教養」がファッション化した今の時代、改めて「教養」の本質を再発見するためにはどうすれば良いのでしょうか。「教養」とは何なのか己に問い、悩み続けなければならないのでしょうか。

「教養」とは何なのか、私には分かりませんが、取り急ぎ「教養ある人間」を目指すために、身近の「教養」があると感じる人の生き様を言語化するというのはどうでしょう。

内省的な眼差しを持ち、自分の時間を生きている人。私の場合、このような人に「教養」と呼ばれるものを見出し、憧れているように思います。

皆さんはどう思われますか。

【コラム】AI教養>ファッション教養

先日、WIREDでAIに関する興味深い記事を目にしました。

この記事では、あるプロモーション施策の一環でAIが書いた書評について、次のように振り返っています。

具体的な書評の内容を聞くまでは面白い企画に思える。しかし、ChatGPTが生成した「書評」は、本の概要とAmazonのいくつかのレビューを参考にしたものに過ぎなかった。アバターは「著作権上の理由から」書籍の本文の情報を取得できなかったのである。

Steven Levy. "AIは本を読めないが、すでに"書評"を書いている". WIRED. 2023-08-29.
https://wired.jp/article/plaintext-ai-chatgpt-book-reviews/, (参照2023-09-02)

WIREDの記事を読んで、脳裏に一冊の本が過りました。ピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」です。

本書において、ピエール氏は次のように語っています。

教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本をよんだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。
したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである。

Pierre Bayard (2016). 読んでいない本について堂々と語る方法 ちくま学芸文庫

レヴィー氏はChatGPTの書評が本の概要と、Amazonのいくつかのレビューを参考にしたものに過ぎないと述べています。しかし、これは正確には誤りです。ChatGPTはより広範に、一般的な公開情報、事実も参照して文章を生成しています。そしてこのChatGPTの文書生成の仕組みは、ピエール氏の述べる「書物の位置付けを大掴みに捉えて書評を行う、教養ある人間の姿勢」そのものにも見えます。

社会で「教養」のファッション化が進み、その本質が見失われていく中、紛い物の知性の代名詞たるAIがそのギャップを埋める役割を果たしているように見えてしまうとは皮肉ですね。


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