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気持ちは世界を変える。

先日、娘の持久走大会があった。
普段見られない娘の真剣な表情と一生懸命に走る姿はなんとも感動的で、当事者ではない今、娘には悪いがひっそりと楽しみな行事だ。

私は知っている。足が遅い人間にとって、持久走大会は運動会と並んで学生生活の中の苦行であることを。
数字は自信を与えたり奪ったりしながら、時に人生を大きく左右する。
なんでも大会にして、順位をつけやがって。
オリンピックみたいに得意な人達だけが参加するシステムになればいいのに。
最下位争い。ゴールを前に瀕死の心身に向けられるたくさんの視線と声援。多感な時期にあの屈辱が教育に必要だといえるものか!
チッ!
おっと。失礼。学生時代の持久走大会に関する記憶がよみがえり、興奮してしまいました。


持久走大会いやだなぁ、と言いながらも、やっぱり今年の娘は少し違っていた。
いやだなぁ、と言いながらもだけれど、練習はけっこう力を入れている様子。休日も、ちょっと行ってくる、と、近所を走りにでかけて、がんばりたい気持ちがひしひしと伝わる。
走るのは楽しい、とまで言った。
大人になってから、というか、つい最近体を動かすことが好きになってきた私。その言葉はすんなりと理解できた。
そこに「順番」がついてきたら、好きなことが嫌なことに変わる。
うん、うん、うん、そうなんだよ。本当に。

いよいよ迎えた当日。
5年生女子が一斉に走り出す。娘はスタート時からずっと後ろの方にいて、それは毎年見てきた安定の位置だった。
だが、かろうじて娘は持久走大会でまだ1度も1番最後になったことはない。

足の速い子も遅い子も、みんな真剣な顔でがんばっている。
後半になるにつれ、みんな苦しい表情で走っていく。見ているだけで、こちらまで息が切れそうになる。がんばれがんばれ。みんながんばれ。
速い子たちが続々とゴールするなか、やはり娘は後方の集団にいた。あと少しだ。クリスマスちゃんと冬休みくんと正月さんが三人、両手を広げ、ゴールで待ってる。がんばれ。がんばれ。

目の前を走っていく辛そうな顔の娘。
恥ずかしがり屋の娘。 
せめて、1番最後にはなりませんように。










たくさんの「がんばれー!」を浴びながら、娘は1番最後でゴールした。


苦しそうに息をしながら、1番最後の番号札を受け取って列に並ぶ。
お友達と話しながら、うっすら笑っている表情が泣き出しそうにも見えるのは気のせいだろうか。
なんて言葉をかけたらいいのだろうか。
あんなに練習もがんばっていたのに。

たとえ娘じゃなくても、1番最後でゴールをする子を見届けるときはいつも切なくなる。
もちろん、がんばったね、完走できてよかったね、と心から思う。だけどそれ以上に、視線や声援や拍手さえ傷になってしまうのではないかと胸が締め付けられるのだ。

閉会式が終わり、「がんばったね」と頭を軽くなでたら、「最後だったぁ」と笑って番号札を見せてきた。

ケロッとしてるけど、本当はすごく落ち込んでいるんじゃないだろうか。


担任の先生が「みんな番号札見せてー」と声をかけ、集合写真撮影が行われた。みんな胸の前で番号札を見せる。娘も少し恥ずかしそうに、そうした。

その日の宿題は、持久走大会の絵日記だった。

そこには、練習をがんばったこと、走るのは苦しかったこと、そしてこう書いてあった


「順位は1番最後だったけど、気持ちは1番でした!」



かっこいいな、おい。

集合写真を撮った時の、最下位の番号札。娘が恥ずかしそうに胸の前に掲げたそれは、一瞬にしてキラキラ輝く金メダルへと記憶を変えてゆく。

娘は、ゴール地点で、お友達や先生や校長先生の応援がたくさん聞こえて嬉しかったと言った。
みんなの応援のあたたかさ。それを、素直に感じられる娘。
自分のがんばりを、数字ではなく、自分で認められる娘。
私が思っているよりも、うんと優しくて素晴らしい世界を走っていたんだな。

私はというと、勝手な心配を巡らせ、大きな声を出して応援できなかったうえに、せめて1番最後にはなりませんように、と、野暮な願いごとまでしていた。
以前、娘の応援団長は私だ、とかカッコつけておきながら、最高にダサいな。

・・・気持ちは団長でした。でへ。

と、思うことすら恥ずかしい。



来年は娘に届くような大きな声で応援しよう。
私も運動をもっと楽しんでやろう。
腹筋だって6つに割ってやるぞ。
あなたの親であるからには、なんでもできる気がするのだ。



ちょっと似たような内容ですが、運動会でのエッセイも書いてます。
お時間がよろしければどうぞ読んでみてください。

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