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心理的安全性と現実社会のジレンマ

皆さま、こんにちは。
エンジニア専門コーチのごとぅーです。
先月から今月にかけて、心理的安全性マネジメントに関するセミナーを受けてきました。振り返りとどんなセミナーだったのか、という紹介は次回こそ書こうと思ってます(笑)
※書きかけで、書き切れずに先送り・・・すみませんorz

そのセミナーを受けた中で1つふと思ったことを今回の記事にしようと思います。それがタイトルにある「心理的安全性と性悪説のジレンマ」です。

心理的安全性の考え方における前提

そもそも、心理的安全性が高まっているチーム・組織には前提があります。
それはチームのメンバーは全員がチームの目的に到達するために行動・発言をしているという「性善説」です。
1人1人がチームの目的に到達するために最善を尽くし、より良くするにはと常に考え、発言を行っている、ということですね。
それと、もう1つ重要な前提があります。
それはこの「性善説」をメンバー全員が共有しており、そのことが共通認識になっていること、です。
お互いが「性善説」という共通理解のもとに行動・発言が行われることを意味します。

現実社会でのベースになりつつある性悪説

ところが、今の現実社会を考えてみましょう。
あちこちに「性悪説」がベースになってきているように思いませんか?
分かりやすいのは子どもに対して、
 「知らない人から声かけられたら、すぐ走って逃げなさい!」
と言われるようになりましたよね。
この事象は「知らない人=悪い人(かもしれない)」という前提に基づいています。かつて、誘拐事件やら通り魔事件があったから、ですよね。
これは私が子どもの時はまだ言われていませんでした。
他にもこのような例は多々ありますが、性悪説を分析したいわけではないので、ここで控えますが、人を信用するまでのハードルは確実に高くなったと思います。

心理的安全性と性悪説のジレンマ

ここまでで心理的安全性が前提とする「性善説」と現実社会で増えつつある「性悪説」でジレンマが起こっていることは伝わったと思います。
さあ、ここからどうするか・・・・?
実は私自身もまだ回答は出ていません。というか出ない気がします・・・。
1つだけ言えるのは、このジレンマがあることによって、心理的安全性が高いチーム・組織を作るのに難易度が上がっていると思える、ということです。もう少し具体的に書くならば、より神経を使わなければいけない現状があると、私はそう思います。

この現実社会において、どうしたら心理的安全性がより担保されるのか、どうしたら心理的安全性が高い組織が作れるのか、をこれからも考えていきます!


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