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ドサクサ日記 2/21~27 2022

21日。
「歌詞(あるいは詩)に込めたメッセージは何ですか?」と聞かれることが多い。本当は「ない」と即答するのが肌身の感覚には合うのだけど、それだとインタビューが成立しないので、願望のような言葉を並べてしまう。詩にはメッセージはないが、こういうふうに読まれたり聞かれたりしたらという願望が少しはある。ただ、それはメッセージとは違う。言葉から離れて、書いた後で勝手に思っていること。

22日。
家からスタジオに車で行き、途中に寄るのはコンビニくらいのもので、作業が終わったら誰ともすれ違わずに真っ直ぐに家に帰る、みたいな生活をしていると自分の空間認識の幅が狭まっていくように感じる。別に何かを話し込んだりしなくても、街なかで無数の人たちとすれ違ったり、会話が耳に入ってきたり、そうした誰かの人生との無意識の交錯が自分の感じられる空間を広げている。

23日。
撮影と取材。身体がバキバキでしんどい。背骨の脇の筋肉が固まって、鉛のように重い。いや、鉛は柔らかい金属か。だったら鉄か。鉄ならば真っ赤に錆びていると思う。身体全体をパーツに分けて分解できるなら、背中の筋肉を取り出してぬるま湯に一晩浸けたい。ついでに内臓も取り出して洗浄し、塩か酢でヌメりを取ってからヨーグルトや漢方薬を表面に塗って体内に戻したい。治るかはわからない。

24日。
夜になって、ロシア軍がウクライナに侵攻したというニュースを知る。どういう言葉を綴るべきか悩む。シンプルに「戦争反対」と叫ぶだけでは虚しい。けれども、そうした言葉さえも綴れないことのほうが、自分にとっては恥ずかしいことだと思う。誰に揶揄されようとも、真っ直ぐに自分の考えていることを書きつけて何が悪い。その言葉が、私たちの口から出ない世界線のほうが、遥かに暗い。

25日。
Facebookに書いた言葉を、多くの国の人がシェアしてくれた。「僕は侵略戦争に反対します。そして、ウクライナとロシア、双方の市民の幸福と安寧を願います。人々や文化や地域は帝国の所有物じゃない。」こういうときに、俺たちはついつい国家の視点に立って話をしてしまう。戦争という大きな言葉の後ろには、無数の市民の暮らしがある。命にとっては本来、国籍は後付けの要素以外の何ものでもない。しかし、多くの人が、国家という存在が自明のものであるかのように信じ込んでいる。本当にそうだろうか。僕たちの人生や生活は、国家の所有物ではない。そのことを忘れて、まるでゲームでもしているかのような視点から戦争を語る。まずは、そうした考え方から改めなければいけないと思う。どこに生まれるかなんて偶然だ。国家や独裁者に翻弄される市民たちに連帯したい。彼らのために祈りたい。

26日。
ランドマークスタジオでロングインタビューを収録。メンバーと5時間近く話した。音楽のこと、バンドのこと、文学のこと、他愛もない話やウクライナとロシアの話など。今まさに身の危険を感じている人たちや、寝る場所もままならない人たちのことを思う。音楽のことを話しながらも、まったく何もなかったかのように振る舞うのは不可能だ。心の奥底に何かが刺さったまま、じっとりと重い。

27日。
久々の休日。散歩。遠い昔に一度食べたことのある「油そば」をスーパーで発見して自作する。こんな味だったかしら、という味だった。そして、たくさん水を飲んだ。乾燥が原因なのか、スギ花粉が原因なのか、数日前から身体中が痒くて仕方ない。この時期は決まって、外へ出掛けていくと皮膚にピリピリとした違和感が残り、夕方くらいからとても痒くなる。目もシパシパして辛い。なんでもない、日々の記録。それが銃弾や爆弾によっていとも簡単に吹き飛ばされるということ。正気を保ったまま、それを「素敵なことだ」と思う人はいないと信じたい。お互いに武器を置けば終わること。けれども、こんなにシンプルなことが何千年もできないでいるのが、主語が馬鹿みたいに大きくなるが、我々人類の現実でもある。全ての愚かさが消えるまで武器を使い続けるならば、俺たちは愚かなままだ。