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日記 10/25-10/31 2021

25日。
音楽フェスはサステナブルな地域活性化や町おこしに役立てるのか、という問いについて仲間たちと話す。音楽を演奏する場が新設されるのは嬉しい。自分が出る出ないに関わらず、素敵なフェスが生まれることはひとりの音楽ファンとしての喜びでもある。ただ、それが意義あることであるとともに、町や地域の人々に根付いて愛される集いであってほしいと思う。音楽はその傍で鳴るくらいがいい。

26日。
格好いい爺さんになりたい、みたいなことを書いたり言ったりしてきたが、今朝、ふと、俺は将来、どちらかと言えば婆さんになりたいのかもしれないと思った。死に向かって、自分ではどのようにもコントロールできない性別という属性というか分類は、そのボーダーが曖昧になっていくと想像する。性愛を端に置いて、人間愛だけになりたい。その日に、自分が爺さんである必要があるのか。

27日。
完全無欠の人間などいない。ということが分かっているのに、自分の失敗が許せない、または他人の失敗が許せないのはどうしてだろうか。タイミングの違いや程度の差こそあれ、許して受容しする以外に、うまくやっていく方法というか、生きていく術はないように思う。最終的に無に帰ることを知っていながら、些細な違いくらいにまで退けられないのならば、この世も自分も呪いそのもの。

28日。
ただただぐっすり寝たい。何の記憶もないくらいに深く深く眠りたい。睡眠は意識のある時間の喪失と呼べるかもしれない。それにも関わらず、質の良い睡眠を欲してしまうのはなぜだろうか。質が良ければ良いほど、ぽっかりと空洞のような時間が人生のなかに広がる。しかし、その空洞の質によって、正気を保った時間もまた増幅し、人生の色合いが鮮やかなる。質の良いフィルムのように。

29日。
チェーンの饂飩屋の期間限定のメニューを注文する勇気が出ない。飲食店でバイトをしたことがある人間ならば分かるだろう。客でごった返すランチタイムに、豚カツを卵で閉じたり、別の鍋で肉や野菜を煮たりするメニューが面倒でないわけがない。俺だったら本部の社員に呪詛の念を飛ばしながら調理するだろう。饂飩は会議室で茹でているわけではない。現場の釜とか鍋で茹でている。

30日。
若手僧侶による法話大会、H-1グランプリの審査員を務めるために奈良へ。それぞれのお勤めのなかで編まれ続けている言葉。その手触りの違いが面白かった。仏教の教えがあり、聴衆がいる。その責任が言葉を磨くのだと思う。相手が目の前に居るということ。連綿と受け繋がれてきた哲学があること。そうした場所では言葉がインフレーションを起こしようもない。あるべき場所に言葉を置くこと。

31日。
社会について話し合う場に爺さんがひとりもいない、というのは異様な光景だと思うが、爺さんばかりだというのも本来は異様だろう。同じように、男性ばかりというのも酷いことで、半数までとはいかずとも、4割は女性でなければおかしい。残った2割は、割り切らないためのクッションに使ってほしい。択一みたいな選択方式でいいのか。爺さんと爺さんのなかから爺さんを選ぶ方式の非。