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ドサクサ日記 7/29〜8/4 2024

29日。
アジカンのリハーサル。やっぱりバンドはとてつもなく楽しいことを演奏しながら思い出す。もちろん、ここまでの道のりにはいろいろな感情が積み上がっていたり投げ捨てられたりしていて、引き返して拾い集めたらメンタルが崩壊するかもしれない。そういう危険性もある。が、作り上げた楽曲たちは、時空を超えて、この瞬間に俺の生を揺さぶる。生きていて良かったと、多分、全身が振動している。

30日。
紙飛行機を思いっきり投げると、まったく思いも寄らぬ挙動で、それは飛ぶというよりは落下というか激突というか、おおよそ飛行という感じにならない。勢いはあったほうがいいのだろうけれど、推進力を与えようとした行為が、紙飛行機の勢いになるとは限らない。椅子に登って、少し高いところに優しく放り出したほうが飛んでいくものもある。同じ折り方でも、微妙に個体差もあって面白い。

31日。
秋の終わりまで暑くて、いよいよ秋という季節の存在が疑わしいと思わざるを得ないが、明日から8月だと思うと少し凹む。おおむね70回程度しか自分は夏を過ごすことはできないが、人生においてもこの夏においても、半分以上が過ぎていってしまった。お盆を過ぎたらクラゲが出て、海には入れない。もっとも、海にはもう何年も入っていない。あと20回くらいしか夏はない。そんなふうに考えると寂しい。

8月1日。
ラジオ収録。その後、ルビ財団の取材。ルビというのは振り仮名のこと。本を読んでいると、案外難しい漢字にルビがないことに驚く。こう言う場合はアプリの漢字辞典が便利だけれど、それは普通よめへんやろと突っ込みたくなるような漢字が登場することが増えたような気がする。こんな字はのPCの変換機能なくして書き手は書けないんじゃないかと、本を読みながら思う。そう言う自分も、「晴天の霹靂」などという漢字を歌詞に登場させたり、むしろお前のような人間がルビの必要性を高めているのだと自戒せずにはいられない。確かに、難しい漢字も読めるであろうというのは読者に対する信頼なのかもしれないが、ややスノッブな感じもあるし、読解力はあるけれども漢字を知らない人や子供たちから読書機会を奪ってしまうこともあると思う。個人的には小説の人名、あれは読めないとモヤモヤする。

2日。
BUNTAIでのファン感謝祭のために、昔の曲を思い出す。メロディのなかで一番高い音をトップノートと言うが、それがラ#の曲がいくつかあって、本番を想像するだけで喉が千切れそうになる。当時から比べて声が出なくなってしんどい、みたいなことなら諦めもつくが、ラ#は当時からしんどい。1曲入魂、レコーディングなら気合でブチ抜いて、そういう瞬間を録音することでエモーショナルな楽曲になるわけだが、捨て鉢のような、絶体絶命のような心持ちで録音に挑んでおり、ライブでの再現性をまったく考えていなかった。ワールドアパートについては既に完成していると考えていたアルバムに、「これでは売れない」とシングル曲の追加作曲を促されて泣きながら作った曲で、何糞魂みたいなものが発揮されてのラ#であった。なんてことをしてくれたのだ、当時の俺。とにかく頑張って歌うしかない。

3日。
オリンピック柔道の混合団体戦を観た。どの試合も感動的で、日仏どちらの選手も素晴らしいパフォーマンスだった。代表戦を決めるにあたってのデジタル・ルーレットはとてもシュールだった。一旦巻き戻って勢いをつけてから回るのだけど、デジタル領域に回転するための勢いはいらないと思うし、そうした演出がバラエティ感を高めて、ヤラせじゃないと思うけどヤラせかもしれない感がちょっと出てしまう。そこまでは半泣きで観戦していたが、ルーレットの瞬間は笑ってしまった。こいうときは世界柔道協会会長みたいな人が現れて、うむ、みたいな顔で木箱に手を突っ込んでドラフト会議のように札を引くタイプの抽選のほうが、分かりやすい偶然性と有り難みがあっていいように思った。誰がどう観てもフェアに見えることは重要だと思う。6階級なわけだから、サイコロを振ってもよかったと思う。

4日。
ロッキンジャパン。蘇我に行くといつも山岡家が気になる。行ったことがある人しか分からないかもしれないが、フェス帰りの道すがらにある山岡家がいつも大行列で、何か特別な、潔のカレー的な無数のフェス飯を食べることよりも優先されるような魅力が、山岡家のラーメンにはあるのだろうと思わざるを得ない。あるいはフェス飯の汁なしラーメンの簡易性に辟易としたひとたちの魂の叫びなのだろうか。