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ドサクサ日記 10/17-23 2022

17日。
部屋のなかにファンシーな匂いが漂っている。普段から無香料のものしか使わない俺はその匂いの原因を突き止めるべく、クンクンクンクンと部屋中の匂いを嗅いでまわった。MacBookに付着した紫色の粉からファンシーな匂いがする。さらに強い匂いを辿ってデイバックを覗くと、藤枝市でもらった藤色のバスクリンの小袋が破裂していた。慌てて水洗いして一晩干したが匂いは取れず。クリーニング屋へ。

18日。
空っぽのまま有名になることを恐ろしさを考えている。自分の手には何もないが、とにかく誰もが自分を知っているという状況は地獄だろう。人に認知されるということは呪いの側面もある。それをよく知っている人たちは、自分たちは表に出ず、誰かを生贄として世間に捧げながら裏で甘い汁を吸うのだろう。誰の人生もエンタメ用のコンテンツではないということを忘れずに生きたい。

19日。
大阪。イベンターが用意してくれたミックスジュースが疲れた身体に染みる。乳成分が喉に張りつくことがあるので、本番前に飲むことは控えている。飲みたい気持ちをグッとこらえて本番の演奏に挑む。すべてが終わった後のミックスジュースの美味しさよ。大したものが入っているわけではないだろうけれど、黄金比のような秘訣があるのだと思う。ただ、一杯でいい。そんなにたくさんは飲めない。

20日。
ツアーが終わりに向かっていて寂しい。これほどまでに充実感のあるツアーは久しぶりだ。ここ一年くらいボイストレーニングに通っている効果が如実に現れて、歌うことが楽しくなった。精神と身体のバランスも整っていると感じる。スタッフワークも素晴らしく、アルバムの世界観を拡張して、その境目が音楽によって現実のなかに溶け込んでいくような素晴らしい体験だと思う。最後まで楽しみたい。

21日。
古川日出男さんとの対談、そしてレコーディング風景を収めたドキュメンと映像が次々に公開になっている。多くのひとに見てほしい。また、文章として、noteにマガジンとしてまとめてあるので、こちらも読んでほしい。作品というのは発表した側から、自分たちのものではなくなる。人々がどうやってシェアしてくれるのかが、作品そのものだと思う。様々な角度から眺めてもらえたら嬉しい。そうすることで、作品の複雑性が露わになる。アルバム自体は確かに、そこに収められた音だけかもしれない。けれども、その背景にはいろいろな人の思いがあり、活動や個々の作品がある。そうした関係や文脈を辿ってもらえると、アルバムが単なる収録された音ではなくなり、社会のなかに関係性の集合体として立ち上がる。俺たちだけではなく、聞き手としてのあなたの存在も、作品そのものだと俺は思う。

22日。
なんでもない散歩が好きだ。公園に行くと、ジェームス・ディーンのような格好いいヘアスタイルの爺さんが子供たちと遊んでいた。着けているサングラスもボブ・ディランみたいで素敵だった。しばらくボーっと過ごしたあとの帰り際、その格好いい爺さんとすれ違う。よく見るとお婆さんだった。遠くから連れ合いと思しき爺さんがやってきて婆さんに駆け寄る。植木職人とルアー・フィッシング愛好家を足して2で割ったようなスポーティな出で立ちで、ディラン風の婆さんとのギャップがなんとも良い。目が悪いのもあるが、ある種の偏見を自覚して少し恥ずかしくなった。そのうち俺も爺さんになり、性的な欲求や能力もなくなって、もはや性別はどちらでもない穏やかな存在だと言える日が来るのかもしれない。そういう未来は素敵だなと思う。しかし、老害ど真ん中のスケベ爺になり果てる可能性もある。

23日。
楽屋で「おじさん構文」なる文章の話で盛り上がった。「おじさん構文」の問題は絵文字の多用うんぬんというより、相手の不快感を和らげるためではなく、自分のダメージを軽減させるための逃げ道を様々なデコレーションを使って用意しているが、それらがまったく逃げ道にはなっておらず、文章自体がド直球のハラスメントになっていることだと思った(そういう例文が多かった)。絵文字に罪はない。