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ドサクサ日記 1/10-16 2022

10日。
新成人を見るとほっこりする。そして、自分が成人になったのは40歳くらいだったような気がして少し恥ずかしくなる。20歳は大人なのか、という問いはとても難しい。法律上は大人なので、大人としての責任を果たさねばならないと言えなくもない。しかし、20歳の頃の自分はどうだっただろうか。体毛が薄めの猿、いや、猿以下烏賊以上の何かとして「ヒューヒューだよ!」とか言ってた気もする。

11日。
出前であたたかい麺類を頼むのは、毎度、大冒険だなと思う。ラーメン屋ならまだしも、蕎麦屋となるとその冒険度はグンと上がる気がする。レコーディング中の食事の場合は「さて、休憩とメシ」みたいな区切りの良いタイミングと、出前の料理の到着が同時になることは稀だ。録音の完了を待っている間にグズグズに伸びていった数々の蕎麦たちよ。そして「今、出ました」としか言わない電話番よ。

12日。
デジタルの音源は立体音響(簡単に言えばサラウンド)が標準とされる時代が到来するのだなと感じる。体感するためのイヤホンやヘッドフォン、プレイヤーやアプリケーションも、意識して手に入れる必要がなくなる。標準装備になる。そうした技術で作られた新しい発想や、コンサート会場に居合わせたような臨場感を楽しめたら最高だなと思う。対置されるレコードやカセットの意味も増す。

13日。
友人について思う。共感では遅すぎる。もっと早い速度で、寄り添えたらと思う。でも、俺の想いとは裏腹に、身体はどうしようもなくのろまで、どこにも行けない。魂だって精神だって同じだ。観念では1ミリだって、彼や彼女や、あなたのそばには行けない。だから、ずっとここにいる。ずっとここにいて、ずっとこのまま、世界で最ものろまなまま、ただ、ありのままに、身動きもできずに。

14日。
続く。結局のところ、俺は何もしてやれない。そうした無力が少しでも悲しいのは、「自分には何かができるかもしれない」という思い上がりによるのかもしれない。あるいは自分が何かを為しているその実感や手応えが欲しいだけなのかもしれない。ただ、そこにいること。何の足しになるかは知らないが、近くも遠くもない傍にいること。鈍い肉塊のまま、なるべく真っ直ぐに項垂れながら。

15日。
温泉に浸かる。ゆっくり湯船に浸かったのは久しぶりかもしれない。浴場に併設されていたサウナには入らなかった。俺はサウナがよくわからない。入ることもあるが「整う」みたいな感覚は未体験だ。というか、そもそも、そんなに長くサウナに居られない。なぜなら、身体と共に眼鏡の金属が熱々になるからだ。ゆえに眼鏡を外してサウナに入る。そうすると何も見えなくて不安な気持ちになる。

16日。
「感性殺し」と名付けたいような娯楽施設に行き、どんよりとした気持ちになった。施設のいたるところから顔を出すのは、アートと称した拝金主義だった。客を「こんなものでしょう」と値踏みしている感じもした。とはいえ、こうして何かを当て擦っているときに、本格的にズレているのは俺の方かもしれない。でも、竜巻状に捩れたまま、あなたと分かち合う未来を思って、決裂したいと思う。