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ドサクサ日記 5/30-6/5 2022

30日。
疲れを知らない身体が欲しいと時々思う。そういう身体はきっと、どこも痛まず、どこにも重みがなく、さぞかし素晴らしいことだろう。しかし、ある日突然腱がプツッと切れたり、臓器や何かのトラブルでバッタリと倒れてしまうのかもしれない。身体から「ヤバイよ」というサインが出ていること。それを感じられることは案外悪いことではないのかもしれない。作業は疲れ果てない程度に留めた。

31日。
歌の録音をワンオペで行う。録音のワンオペの難しいところは、機材のメーターの確認だろう。入力が大きすぎて歪んでいないか、コンプがかかり過ぎていないか、他人の歌の録音のときはリアルタイムでチェックをして微調整することができる。しかし、歌いながらだと各種のコントロールノブには手が届かない。歌詞を無視して、メーターを凝視するわけにもいかない。エンジニアと歌手の二役は大変だ。

1日。
国際フォーラムは音がとてもいい。東京では随一と言っていいのではないかと思う(俺調べ)。しかしながら、「国際フォーラム!やった。絶対観に行く!」という人は少ないように思う。武道館や日比谷野外音楽堂といったシンボリックな会場では、みな我先にとチケットを求める。それも良くわかる。国際フォーラムも音響の角度からシンボリックな場所だと認められてほしいなと、結構強めに思っている。

2日。
森見登美彦さんの小説をアニメーションにするのは、とても難しいと思う。映画となると殊更ではないかと感じるのは、2時間くらいで表現するには捨てられない要素がギッチリ詰まっているからだ。どこを引いても、話全体の面白みやおかしみが失われてしまうような気がする。しかし、それを取捨選択して映像にまとめようとする努力と技術よ。それは、あらゆる映画や表現にも言えることかもしれない。

3日。
ProToolsなどの機材の設定のために、山口県にあるビートさとし(skillkills)のスタジオを訪ねた。徳山駅から在来線に揺られて、目的地の駅へ。途中に見えた海や野山が美しかった。人間が海辺をコンクリートの岸壁で覆ってしまうことを悲しく思う。晴れた日の海は美しい。しかし、自然の力は大きいわけで、恐ろしい日の海のことを思えば仕方のないことなのかもしれない。どうあっても海の側に住む人たちは尽きない。危険と隣り合わせだが、海辺を望む気持ちがとてもわかる。俺も海の側がとても好きだ。スタジオではワイワイとマイクや機材を試す。気持ちの良い音楽の現場は、どこにあっても楽しい。設定が終わったあとは、庭先でバーベキューをご馳走になった。畜産の特上肉も美味しいが、野山の野菜と海から来た魚介が、ほんとうにあっさりと味覚の頂点を駆け抜けていった。烏賊と椎茸。

4日。
コンサートの前に死没者追悼祈念会館へ行った。企画展「震えるまなざし」の記録映画を観て泣いてしまった。生きている時代は違っても、普遍的な人心の有り様は共通している。世界各地で、亡骸となった我が子を前に、自分の親としての無力さを噛み締める人たちの心情を思う。何のために戦っているのか。何が人間にとっての幸いなのか。そうした問いを絶望や虚無の内に放棄せず、生きていきたい。

5日。
コンサートの現場が少しずつ賑わい始めているのは、とても嬉しいことだ。以前のようにはいかないこともあるけれど、どういった客席が観客にとって居心地の良いものなのかについて、演者として、ひとりの観客としても、考え直す良い機会なのではないかと思う。例えば、外国のライブハウスで演奏するとき、チケットがソールドアウトになっている公演であっても、日本のようにギチギチの状況を体験したことがない。観客をギチギチに詰めて入場させないと成り立たないような産業構造になっているのならば、改善しなければいけないと思う。適度に身体を動かすスペースがあるべきだ。しかし、音楽産業単体の問題ではないようにも感じる。これは地価や家賃の問題でもあるからだ。土地を投機の対象にしていることが、私たちをいろいろな面から縛っている。そうした根の深い問題でもあると思う。