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ドサクサ日記 番外編

「熊本の災害被災地で出た廃棄物を再利用したい」という連絡を野原さんから受けたのは2021年のことだった。

 災害廃棄物は基本的に再利用ができない。2011年の東日本大震災のときには、町中に堆く積み上げられた「瓦礫」を見つめながら、「みんなは瓦礫と呼ぶけれど、俺たちにとっては家や家具だったんだよね」という言葉を聞いた。本当にそうだよな、と思った。「瓦礫」は分別されて燃やされるのを待っていた。あるいは、廃棄されることを。

 本当に廃棄されるのを待つだけでいいのかと言う思いを、のはら農研塾の野原さんは持ったのだという。再利用はどうして認められていないのか、と。そして、大川で家具の製造業を営む園田さんと、災害廃棄物を再生させる取り組みを始めた。

「何か一緒に作れるものはないかな?」という問いかけに、俺は「機材のラックが欲しい」と答えた。スタジオの機材のラックは規格が一定の割にバリエーションが少なく、基本的には持ち運びができるケースのタイプのものか、フェルトが全面に貼られたシンプルなものが多い。選択肢の少なさが悩みだった。

 何度かのメールのやり取りを経て届いたのが下の写真のラック。凹みがあったり穴が空いていたりするところがむしろ良いと俺は感じる。災害が破壊した生活について考えると悲しい気持ちにもなるが、誰かの生活がこの向こうにあって、無念さを越えて、そこにあった何かを引き継いでいるのかと思うと、肯定でも否定でもない優しい気持ちが湧き上がってくる。

Cold Brain Studioに設置されたMash Roomの木製ラック。天板には梁(はり)らしき穴が空いている。

 なんでも捨ててしまう、燃やしてしまう、そうした社会のあり方は疑問に思う。世間ではSDGsという言葉が闊歩している。作ること、消費することについては語られ尽くしているが、私たちは廃棄すること、廃棄物を自然に返すこと(発酵や腐敗や分解)については多くを語らない。廃棄物の問題が環境の問題の中心地であるというのに。

 TOSHI-LOWさんは野原さんからの連絡に、「何かを新しく作ってもらうと、今使ってるものがゴミになっちゃうから、本当に必要なものができたときに連絡するよ」と答えたのだという。こういう言葉をサラッと仲間に言えるところが、TOSHI-LOWさんの素敵なところだと思う。

 被災地から運ばれた木材。

被災地から運ばれた木材。刺さった釘を抜かないと木材としては使用できない。

 これらの木材には無数の釘が刺さっているので、そのままでは製材できない。釘が刺さっていると、製材のときに使う機械を傷つけてしまう。木材を板にする機械の回転型のノコギリの刃は、釘によって傷がつくと数万円の修理費がかかってしまう。ゆえに、最後の一本がなくなるまで、金属探知機を使って探索しているとのこと。釘抜きは幡ヶ谷再生大学などのボランティアの皆さんによって行われている。

木材に刺さった釘。錆びた釘のなかには折れてドリルでないと抜けないものもある。
釘抜き前の木材。製材所の片隅に保存されている。立派な梁なども目立つ。
釘抜きが終わり、板に加工されるのを待つ木材。

 ひとつの束の釘抜きを終えるには、数人の大人で1日がかりの作業が必要なのだという。それほど手間ではないのかと勘違いしていたが、かなりの重労働だ。俺の手元にあるラックもそうした作業があってのものだと考えると、愛着も変わってくる。本来は釘があるかもしれない廃材はリスクが高いので、受け入れる製材所が見つかったこと自体が、奇跡的なことだと伺った。野原さんと園田さんだけでなく、多くの人の思いやりや決断のうえに成り立っていることなのだと感心した。

製材所でカットされ、工場に運び込まれた木材。不揃いで板面はまだザラザラとしている。
園田さんの工場の機械。家具にするために板材を加工していく。
家具にするために加工されていく板材。どんどんそれらしい姿になっていく。
積み上げられた被災地の木材も、家具用として美しく生まれ変わる。
ベンチに加工された廃材。さらなる改良を経て、企業の施設に設置される予定だという。
ソファの背もたれにも、廃材ゆえの味わいがある。

 こうした活動をどう思うかは人それぞれだろう。私たちはあまりにも、安く買って買い替える文化に身を浸しすぎている。長年愛用したCDウォークマンも、「買った方が安いし早いですよ」とSONYの修理の部門に言われたのはもう10年も前のことだ。

 木を植えて、それが木材になるには、少なくとも数十年の月日が必要だ。岩手県の林業家たちは、30年で木材に使える木の苗を植えながら「この木は成長が早いですから」と言っていた。30年が早いとは…。それに比べて、私たちの暮らしぶり、消費のスピードを考える。

 大川ではMWAMのトーキョータナカと会った。彼は廃材をツリーハウスに使いたいのだという。彼は被災地への支援に熱心で、ARABAKI ROCK FEST.を支援する際にも大車輪の活躍であった。素敵な人だと思う。

 大量生産大量消費の取り組みではない。注文したら翌日に発送されるようなスピード感でもない。実際、俺もネジ穴の調整など、何度もやりとりをして、最後はDIYで改良を加えてラックの試作品を完成させた。ものづくりってこうだよなと実感することができ、ラックへの愛着もさらに増した。

 絶対に買ってくれ、とは言わない(TOSHI-LOWさんの言葉を思い出しながら)。こういう選択肢もあるのだなと、知ってもらえたら嬉しい。宅録の音楽をやっている人に木製のラックを宣伝をするならば、園田さんは12Uまで対応してくれるとのこと。それぞれにキャスターを取り付けることも可能だ。

 改めて、私たちの暮らしに必要なのは、こうしたささやかな愛とか温かみではないかと思う。もったいないみたいな気持ちを愛着に変えて、捨てるものを減らしてゆくこと。それらをパスしてゆくこと。瀬戸内海や日本海、太平洋の海面をプラスチックゴミで埋め尽くすまでモノを捨てながら、発展や成長を盲信するわけにはいかない。ささやかな抵抗が世界を急激に変えることはないかもしれないけれど、誇りを持って気持ちよく生きていくことが、私たちそれぞれの人生に与える影響は絶大だと思う。

 それぞれの場所から。