手を失くした少女
8月はしぶとい。もう9月の気分だが、まだ3日も残っている。
昼に続き、仕事帰りにKindleで夏目漱石『吾輩は猫である』。面白い。こんなに面白いのに、なぜもっと広く読まれていないのかと、余計なお世話としか言いようのない義憤に駆られる。よく考えたら、日本で最も有名な作家による、最も有名な小説なのだが。今読んでいるあたりでいうと、最近の猫の活躍といえば、台所のお雑煮の餅を盗み食いして踊り狂ったことぐらいで、話題の軸足が徐々に人間同士の会話劇に移りつつある。気が付くと、もう何頁も猫が登場しなかったりする。猫が彼ら人間たちの会話をそばで聴いている、という体ではあるが。とにかく、人間同士の掛け合いの間抜けさがおかしい。猫の主人である苦沙弥(くしゃみ)先生に、いつも法螺話ばかりの適当男、迷亭先生と、真面目のようでどこか頭のネジが一本抜けている寒月君の二人が会話に加わると、まず間違い。くだらなすぎて。
迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳の俎と云う格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が云う。実は行徳の俎と云う語を主人は解さないのであるが、さすが永年教師をして胡魔化しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「行徳の俎というのは何の事ですか」と寒月が真率に聞く。主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。
夏目漱石『吾輩は猫である』[Kindle版]青空文庫,Kindleの位置No.1120
夜、仕事終わりに渋谷で奥さんと待ち合わせ。店でカレーを食べた後、ユーロスペースで映画『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』を観る。ラジオきっかけ。客の入りは席の8割程度。
運命に翻弄されるがままに自分の手を切り落とされた少女が、最後は自分の手で人生を切り開く。物語の最後は晴れやかだし、斧を始めとする小道具の象徴的な使い方も巧みだったが、何よりも作画の実験性に痺れた。
緑色の描線を基調とする画面だが、大胆に絵の「線」が省略されている。特に人物の輪郭線。人物が静止している時は輪郭線があるが、一度その人物が動き始めると、輪郭線が曖昧になる。曖昧というか、消える。明滅?点滅?とにかく非常に短い間隔で線が消えたり現れたりするので、予告動画以上にダイナミックな印象を受ける。
輪郭が常に揺らぐので人物の特定は難しくなるのだが、人物の動作のイメージが脳内に次々と流れ込んでくるので、彼らが今何をしているのか迷うことはほとんどない。線の省略が必ずしも情報の省略にはならず、かえって豊かにしているのかもしれない。
人物が移動すると、しばらくの間、移動前の人物の影のシルエットだけが画面から消えずに残っていたりする。画面に何を残すのか、あるいは何を残さないのか。表現の取捨選択について、ぎりぎりのラインに挑戦しているようだ。画面に現れたものが、何を象徴しているのか。線のひとつひとつに込められた意味に想いを巡らせながら鑑賞すると、一回だけでは物足りなくなる。要所で不穏な空気を演出する音響も良かったし、疾走感や開放感など色々な感情を表現する劇伴音楽も良かった。
上映後は、監督によるトークショーが開催される予定だったが、監督がドタキャン。理由は、「うっかりして、忘れてた」とのこと。それならもっとチケット代の安いサービスデーに観に来れば良かったと落胆するが、他の観客たちは笑っていた。周囲の大人な反応に、自分の吝嗇ぶりが恥ずかしくなる。
監督に代わり、本作の配給会社の方が1人でトークを始める。フランスのアニメーション映画の状況を解説。フランスでは政府による芸術支援が積極的で、地方自治体などの潤沢な補助金を巧く利用すれば、製作費ほぼゼロで映画を作ることができるらしい。また最近のフランスの若い夫婦は、自分たちの子どもにディズニーなどの王道以外のアニメを見せたがる傾向があるらしく、地方の映画館でも本作のような実験的なアニメ映画をよく流しており、館内は子どもたちで賑わっているという。レイティングも日本より寛容で、際どい性描写や暴力シーンを含む本作も、6歳~9歳ぐらいの子どもたちが楽しんで観ているという。監督の欠席に最初は落胆した私だが、勉強になる話ばかりで面白かった。最後にパンフレットを買って帰る。
SmartNewsの記事。
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