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このスープの中には、千年近くもの歴史が入っているんだからな

マクドナルドで朝食。木曜が定休日の奥さんは、ジムで運動している。その間の時間潰し。店内2階に上がり、窓辺のゆったりした席に腰を下ろす。通りを行きかう人々の姿が見える。トレイの上には、ハッシュドポテトとベーコンエッグ、それにミルク。こんなにたくさんの美味しいものが、こんなに安くて本当に良いのだろうかと、うきうきしながら食べる。

PCを開いて、昨晩読んだ小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』の、印象に残った文章を書き写す。

キーボードを叩きながら、ラジオクラウドのアプリで、ラジオ番組の過去放送をイヤホンで聴く。「決闘シーンは、ラブシーン!? 時代劇もっと入門講座・第2弾」の回を聴いていると、最後に黒澤明監督の『椿三十郎』の話題。ある若侍が、浪人に窮地を救われる。彼はその浪人を兄のように慕い始めるが、浪人は正体を隠しており······。おおよそこんな感じの粗筋。最後の決闘シーンは、対決する二人の関係性も相まって、ラジオの解説を聴いているだけでこみあげてくるものがあった。観たい。というより、なぜ観ていなかったのか、今までの自分を責めたくなる気持ちになった。

続いて、同じラジオ番組の、夏のアニメ映画特集を聴く。『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』が気になる。フランスのアニメ映画。欲にくらんだ父親が、悪魔と契約する代償に、娘の両腕を切り落とす。公式webサイトを確認してみる。

水墨画のように荒々しい筆致の作画が印象的。もの哀しげな劇伴音楽も耳に残る。都内の上映は渋谷ユーロスペースのみ。観たい。

奥さんと合流したあとは、アクアリウムショップに立ち寄って、水槽の中の熱帯魚をしばらく眺める。そして焼肉ランチ。食後はしばらく散歩し、とあるブックカフェに入る。アイスコーヒー2つと、パンケーキを1つを注文。平日の昼間は休日以上に賑わっていた。女性の店主が一人で店を切り盛り。機転を利かせた彼女が、パンケーキを二皿に切り分けて持ってくる。アイスコーヒーで喉を潤わせたあと、ウィラ・キャザーの『大司教に死来る』を開く。読んでいると、随所に須賀敦子の影を感じる。幽かに。例えば、ちょっとした季節の街角の描写に。

クリスマスの日の夕方、司教は机にむかって手紙を書いていた。サンタ・フェへ帰ってくると、仕事上の手紙がたまっていた。が、今彼が意味深長な微笑を湛えてしたためている、ぎっしりと字のつまったのは、枢機卿宛でも、大司教宛でも、修院長宛でもなく、フランスのオーヴェルニュの、彼の小さな町にあてたものだった―—あのマロニエの木には、今日でも、少しばかりの枯葉がしがみついているだろう、また、一枚一枚散っては、壁にからんだ冷たい緑の蔦にからまっているかもしれない――その木陰の、あの灰色の、曲がりくねった、丸石で舗装した通りにあてたものだった。

ウィラ・キャザー(著),須賀敦子(訳)『大司教に死来る』河出書房新社,p.38

取るに足らない二人の会話に。

一瞬、祈りに佇むと、ジョセフ神父が、パンの小片入りの黒い玉葱のスープを皿についだ。司教は念入りに味をみてから、友をみて、にっこりした。スプーンが唇に、二、三度行き来した後、これを置くと、司教は椅子の背によりかかって言った。
「ブロンシェ、考えてもごらん、ミシシッピ河と太平洋の間の、この広漠とした国に、こんなスープをつくれる人間は、おそらく、ないだろうよね」
「フランス人じゃなきゃね」と、ジョセフ神父が言った。彼は法衣(カソック)の胸にナプキンをたくし入れ、瞑想にふけっているひまなど持ち合わせなかった。司教はつづけた。
「ジョセフ、君個人の才能をけなすんじゃないよ、しかし、考えてみれば、こういうスープは一人の人間の仕事じゃない。これは、絶えまなく洗練され続けて来た伝統の産物さ。このスープの中には、千年近くもの歴史が入っているんだからな」

同上,p.43

人物に対する、深みのある洞察に。

一番信頼のおける地図は、カーソンの頭だった。が、景色や人の顔をすばやくよみとるこのミズーリ人は、文字がよめなかった。この頃、辛うじて自分の名がかける程度だった。しかし、彼のうちには、鋭い、分別のある理知性が感じられた。字がよめないのは偶然にすぎず、本を追いこして、印刷機のついて行けぬところまで行くのだった。

同上,p.77

こうした感性の発露が、須賀敦子の詩情を彷彿とさせる。訳しているのが彼女だから、当然と言えば当然かもしれない。いや逆か。ウィラ・キャザーの文章が、須賀敦子の文体に影響を与えてきたのか。好きな本の著者の好きな本、そのまた好きな本、そのまたそのまた好きな本…。数珠繋ぎを遡る読書の旅に、終わりはない。

途中から隣席に座った女性客が、店主と会話を始める。常連客だろうか。何かの舞台劇を観てきた帰りらしく、観劇の感動を店主に熱く語っていた。中村勘三郎がどうの、などと聴こえてきたので、歌舞伎だろうか。最後は本当に感動しちゃって。席から立ち上がれなくなるくらい。それで…もう一度観たい!て思ったの。もう一回観たいな。店主はにこにこしながら女性客の話に相槌を打っている。女性客は最後に、しばらく間を置いて、やっぱりもう一回観に行こう、とつぶやいた。独り言のように小さな声で、しかし力強く。私は歌舞伎のことはよく分からないし、今後触れる機会があるのかどうかも分からない。けれども、そこには彼女の魂が震えるだけの価値があって、それだけは十分に伝わってきた。きっとそこには、私の言葉の及ばない、彼女だけの豊かな世界が広がっているのだろう。

「神父さま、あのよこの小さな星、ね、インディアンはあれを、案内人って呼びます」
 二人の友は、夜が周囲に迫る頃、各々の考えをいつくしみつつ、すわっていた。星にちりばめられた群青の夜、天穹に、さびしい丘(メサ)の嵩が切りこまれていた。司教は、ヤシントの思想や信仰について、めったに尋ねはしなかった。それは礼儀正しくないと考えていたし、また、無駄だとも思っていたのだ。欧州文明の記憶をインディアンの頭脳にうちこむ術はなく、彼とても、ヤシントの背後には、長い伝統、どの国語をもってしても訳し切れぬ経験談があることを、信じてやまなかった。

ウィラ・キャザー(著),須賀敦子(訳)『大司教に死来る』河出書房新社,p.89


日が暮れる前に、店を出る。スーパで夕食の材料を買う。野菜炒めしか作れない私が、家で野菜炒めを作る。試しににんにくと舞茸を混ぜたら、大成功だった。残り物の玄米と一緒に、しゃきしゃき食べる。

その後はジム。トレーニングしながら、小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』の続きを読む。物語は、想像する斜め上の方向に次々展開する。だが、文章に宿る静けさは一貫している。

「負けました」
 老婆令嬢が眼鏡を外した。
 祖母は孫の唇がなぜ閉じられたままだったのか、それと引き換えに孫に授けられた才能が何だったのか、はっきりと悟った。
「あの子には言葉なんかいらないんだよ。だってそうだろう? 駒で語れるんだ。こんなふうに、素晴らしく······」
 祖母は見えない誰かを指差すように、震える右腕を持ち上げた。その手を祖父と弟が握り締めた。布巾は彼女の左手よりもっと小さく折り畳まれ、掌の奥でじっと息をひそめていた。

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.246
「どうしても寝つけない人、夜明け前に目が覚めてしまった人が、ベッドの中で背中を丸めているのに耐えられず、一人さ迷い歩く。どこかへたどり着くかと言えば、それはチェス室なの。チェス盤の前に座るの。自分の部屋番号は忘れても、チェス盤がどこにあるかは絶対に忘れない。そういう時、相手をしてあげられる人が必要なのよ。小手先の誤魔化しじゃなく、真剣にチェスを戦える人が。そうできれば、ぐっすり眠ったのと同じ幸福な朝が迎えられるわ」

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.271

寝る前に、先日立川で購入したつげ義春『ねじ式』を読んで、おっ、と思う。ねじ式、沼、チーコ、初茸狩り、山椒魚。どの掌編も面白い。すごく面白い。悪夢のなかを彷徨っているような気分になる。読み手の勝手な解釈を拒んでいるような感じもする。特にねじ式は、話の脈絡のなさが本物の夢をみているときのようで、意味は全く分からないのに、ああ確かに、と肯かせるような、妙な説得力がある。他の漫画も、残酷だったり、歪だったりするが、底に奇妙な懐かしさを感じる。『貧乏旅行記』をきっかけに著者の本職である漫画にも興味を持った訳だが、これならもっと早く読めばよかった。

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