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自分のエッセイについたSNSのコメントを読んでみた

11月に、朝日新聞社が運営するウェブ媒体『かがみよかがみ』に、私が書いたエッセイが掲載された。タイトルは『18歳年上の彼と結婚した私が真夜中にふと願うこと』。

見たまま、18歳年上の夫と結婚した私が考えていることを、直球どストレートに文にした。私は文章を書くプロではないので、エッセイを書いたのはこれがほぼ初めて。メディアに応募したのも初。そもそも掲載に至るとは到底思っていなかったから、どうせ誰も見ないだろうという考えのもと、ある土曜の昼下がりに、泣きながら綴った。
掲載後は嬉しいのもあったけど、身バレしたら嫌だなとも思った。それくらい、普段私が外で見せている姿と、エッセイの内容が乖離していたから。より自分の核に近い部分を、開放したからである。

公開されてしばらくは、自分が書いたほの暗い文章が周囲にどう受け取られるのか、知るのが怖くて怖くて仕方がなかった。一度公式アカウントからリツイートされたコメントを見たのだけれど、私が書きたかったことは、そういうことじゃなかったと、一丁前にとてつもなくがっかりした。それ以降は寄せられる感想を見たくなくて、かがみよかがみのサイト自体を訪れなくなっていたのだが、エッセイ掲載から1ヵ月も経つと、逆にどんな言葉が寄せられているのか気になってくるもので。勝手もいいところだが、気になってソワソワするので、SNSでエゴサしてみることにした。

私のエッセイに寄せられたコメントは大きく分けて3種類。
①わかるわかる~
②こっっわ!
③いい話だな

ちなみに先ほど言ったがっかりしたコメントというのは③である。冒頭でもお伝えした通り、泣きながら書くほどには自分をすり減らして書いたので、このエッセイは私にとってはけっこうキツい荷下ろしだった。キツいけど、でもそれ以上は抱えるには余る感情だったから、書いたのだ。そこには結婚相手に18歳年上の彼を選んだことへの葛藤や、家族との軋轢、頭を抱えたくなるほど先行きの見えない経済状況があった。子どもが欲しいけれど、別居婚をはじめ困難なことが山ほどある。普通の夫婦が困窮した場合に受けられる制度も、私たち夫婦は普通ではないから、受けられない。これのどこが「いい話」なのだろうと思った。

思って、今日1ヵ月ぶりに改めてそのコメントを見た。コメントを見て、もう一度自分が綴った文章を、頭から最後まで読んでみた。

不思議と、今日はがっかりしなかった。

そもそも個人が抱く感想は作者が知るところではないし、口出しするところではない、ということをこの1か月で学んだというのもある。でもそれだけでなはい。自分の断片を時間をおいて客観的に見てみたら、たしかにそこには「いい話」があったのである。夫が死した後の独りぼっちになることへの不安や悲しみ、苦しくて苦しくて吐き出すように殴り書きした文章だったけど、それでも消えない夫への想いが、たしかにあった。苦しいばっかりに囚われて、危うく彼との大事な時間まで、詰まらないものにしてしまうところだった。

あとこれはエッセイを書いて、色々な人に共感してもらえたことで感じるようになったのだけど、こんなにも私の頭を悩ましてくれる相手がいるというのは、とてつもなく幸福なことなことなのかもしれない。
それと「怖い」というコメント、私はこれを見たときに思わず笑ってしまった。だって、誰かが誰かをこよなく想っている様は、他人から見たら、そりゃ怖くて当たり前でしょ。だから殊更に思うのだけど、私の気持ちを受け止めてくれる、そのこと自体が愛なくしてはできないことだなと。受け止めて、また渡してくれることの幸せを、今このnoteを書きながら噛みしめている。

何が言いたかったって、ただのノロケです。


2020.12.09 ごろん

P.S.コメントくださった方、ありがとうございました。あの時は不貞腐れてすみませんでした。まだまだ未熟者なので地道に歩んでいきたいと思っています。





息を吸って、吐きます。