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障害(碍)児差別を批判できるのか?

先日、群馬県の特別支援学校勤務の女性教員が障害者を差別する内容を自身のTwitterに投稿していたいうニュースが掲載されてました。

個人的にはその立場でそんなこと投稿しちゃダメでしょとも思うが、投稿した内容を発したいという気持ちもわからんでもない。

様々なマイノリティが脚光を浴び、差別している方がダサいという風潮の中で、叩かれる案件なのかもしれないけどさ。やっぱり、LGBTとか外国人とかとは質が違うと思うんですよね。

普通に考えてですよ、暴力的行動に走りやすい傾向にある人だったり、暴力が日常みたいな生活をしている人たちって、どっちかっていうとマイノリティだと思うんですけど、この方たちを理解しましょうよ!という流れにはなりにくいと思うんですよね。

それって何故かって考えたときに、やっぱり分かち合えないというか、そもそも意思の疎通が図れないというか。極端かもしれないけれど、山で野生の熊と出会って、童謡「森のくまさん」のように熊と仲良くなれないでしょ?いくら友好的な態度で近づいても逃げられるか、攻撃されるかになるんじゃないかと。

その感覚って、認知症を患った方とか、重度の知的障害者の方とかにも当てはまるんじゃないかと。

今回の記事内容に関して障害児を育てている親から批判が出てるのかも知れないけれど、それはちょっと違うんじゃないかと。そりゃ、一般論として差別は根絶すべきだろうし、障害者だって一個人なんだし尊重すべきであることは間違いないでしょう。ただですよ、せっかく待望の我が子を妊娠しても出生前検査で陽性反応が出て、中絶する人たちが存在するのも事実であって、批判を出している親御さんたちは様々な葛藤を経て、それでもこの子を育てたい、共に生きたいと決意の元にあると思うんですよ。そこには家族の愛があると思うんですよね。

これが今回の教員のような立場だったらどうなるか。事前の情報共有や面談などはあるにしろ、4月になったら有無を言わさず様々なタイプの新たな障害児が入学して、それに臨機応変に対応しなければならない。しかも、意思疎通が図りづらい、又は図れない。その人が聖人君子ならまだしも、そんな人は稀で、仕事として精神的にも肉体的にも酷な日常を過ごすことになる。たとえ、愛そうと割り切れたとしても、長くても数年で関係は切れてしまうし、また新たな子がやってくる。と考えると、精神保ってるだけでも偉いと思うんですよね。

例えば、今回批判されている障害児を育てている家庭で、期間限定だとして、他の障害児と自分の子と同じように生活してください。と言われて、それが果たして出来るのか。

誰かがコメントしていたけれど、今回の件て氷山の一角でSNSに投稿しないにしても同じような感情を抱きながら、障害者や高齢者、病人などと対峙する業務に携わっている人って沢山いると思うんですよね。けれども、比率的に言えばマイノリティ。しかも、体験しないとなかなか共感しがたい環境・境遇。給料沢山もらったからって頑張れるものでもない。

こういう場面にはやっぱり、AIとかロボティクスの分野がはいらないと解決は難しかいかな?何かしら、研究・開発は進んでるでしょうけど。人間味が無くて嫌だとか言う人もいるんでしょうけど、人がひとじゃなくなっちゃうよりましだと思いますよ。。。

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