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令和5年夏、熱狂甲子園塾!(その5)

決勝戦

最も失望した映像

今大会のNHKのテレビ中継で私が最も失望した映像が、慶應義塾高校の優勝決定の直後にあった。その数秒間、テレビは、マウンドのピッチャーの元に集まる慶應の選手たちではなく、外野守備から駆け出す一人の選手だけを映し出していた。
彼は、確かに、その決勝戦では決定的といえる活躍をした。端正なマスクのため、戦前から一部マスメディアの注目を集めていた。しかし、慶應高校の栄光は、その選手一人の喜びによって表現されるべきものでは決してなかった。活躍や人気なら、過去の大会では彼よりもはるかに大きいそれらを得ていた選手もいた。
どうしてあのようなイレギュラーな映像になったのか、不思議でならない。
原因は、NHKの放映担当者の品性が下劣だからとしかいいようがない。これは、試合中に、特定のチアリーダーを映し続けることがあるのとは意味合いがだいぶちがう。
優勝決定は、大会で最も重要なシーンの一つのはずである。慶應高校は、チームの力で、栄光を成し遂げたのである。それなのに、NHKは何を勘違したか、ずっと個人を映したのである。あの映像には、もし私が慶應の関係者でも疑問を感じただろうし、その選手の家族であったとしても戸惑いを覚えただろう。
物議を醸したスタンド以外でも決勝戦の品位を引き下げた印象が強く、思い出すたびにガッカリする。大応援にNHKも浮かれていたのか。
ちなみにNHKは、後のハイライトでは、マウンド付近をとらえた別のカメラの映像を用いて優勝決定の瞬間を伝えていた。自らの恥を露呈する映像が二度使えるわけがなかったのである。

不思議な力

慶應義塾高校の巨大応援団が押しかけ異様な雰囲気で開始された決勝戦は、
1回表の1番バッター丸田選手のホームランにより、いきなり圧倒的な流れを慶應に引き寄せた。仙台育英高校の須江監督は、試合後、「あれで慶應の空間になってしまった」と述べた。
須江監督に注目し、選手を覚え、校歌まで歌えるようになっていた私は、連覇がかかっているほうを判官びいきするというのも奇妙な事態だが、より強く仙台育英を応援していた。だが私は、プレイボール直後のあっという間の先制パンチを見て、わずか1点でありながら、これが決定的な得点になったことを直観的に理解した。たった5球で、今日は慶應が勝利するということを半ば以上受け入れていた。
私は、野球の試合の「流れ」というものを基本的に信じていない。その言葉を安易に用いて説明する野球解説者にはいつも閉口してしまう。そういう私でも、この試合には何か非常に不思議な力が働いたような感じを受けた。丸田選手は、それが公式戦での初ホームランだったという。イケメン美白のプリンスなどと形容され、どちらかといえば外見で注目されていた選手に、それまでを超える力が与えられたのである。動揺した仙台育英に対し、慶應は圧力を増して鋭く襲いかかり、暴投を誘発したのち追加点をあげた。まさに、電光石火の2得点。
仙台育英としては、タイブレークを見越して後攻を取るのが定石だとはいえ、この日ばかりは慶應に先攻させたのが不運だったかもしれない。湯田投手の先発は、今大会の充実ぶりから彼が打たれたら仕方ないという選択ではあったが、もうひとりのエース・背番号1の髙橋投手だったらどうだったかと思わせる点で不運があったかもしれない。そして、その髙橋投手へは早めの5回からスイッチしたものの、直後にきわめて不運なエラーに見舞われまさかの大量失点で勝負は決した。
むろん、もろもろの不運は実力のうちにすぎないともいえる。そうであれば、やはり視点は1回表の攻撃に集中する。「神様に勝てと言われたと思った」とは須江監督の3回戦勝利後のコメントだったが、決勝戦はまさしく神様が最初から慶應に微笑んでいたような試合であった。それほどの先頭打者ホームランであった。

大応援団の圧力

決勝戦の後、内外野を埋め尽くした慶應の大応援団(一部マナーが疑問視された)が試合に影響したか否かが議論になった。一番の象徴が、仙台育英の外野手が交錯してフライを落球した場面である。これに関して、「圧力を受けたなどといって仙台育英の選手を馬鹿にするな」という奇妙なフォローの意見も見られて議論のさまは滑稽だった。当の外野手が、お互いのかけ声がまったく聞こえなかったと述べているのだから、影響はあったにちがいない。「想像を超えてきた」という内野手の談話もあった。ちなみに私も、最初からテレビの音量を絞っており、遠目でしか見られないほどだった。
今大会、仙台育英には連覇がかかっていた。強いチームに対して、ときおり逆風が吹くのが甲子園のスタンドである。もし、仙台育英がもっと圧倒的な強さを見せつけていて、そして慶應がどこかで負けていたら、ひょっとすると、決勝にたどり着くまでに仙台育英がヒールになっていたかもしれない。だが、現実には、決勝戦のスタンドは仙台育英の戦いぶりとはまったく関係なく慶應一色になってしまった。気の毒にも、仙台育英は理由のないプレッシャーをかけられた。その危険を事前に察知した須江監督の懇願によって東北のファンから送られたはずの「元気玉」も、通用しなかった。
実は、決勝戦の失策数は、慶應が仙台育英を上回っている(慶應4育英2)。記録を見ると、1・3・4回に内野の失策がある。決勝戦を意識して、特に内野手は、地に足がつかない感じになったのだろう。そういう意味では、大応援団は慶應にもプレッシャーになっていたのかもしれない。大きな試合になるほど、普通の精神状態でいることは難しい。エラーをしても、
被害をできるだけ小さくしてしのぐことが大事である。
「決勝戦」には、誰もが勝ちたい最後の試合である。慶應は、下馬評通り、優勝にふさわしい強いチームだった。大応援の有無にかかわらず、決勝戦に勝つ力があり、現に勝った。他方、もともと、アマチュアスポーツの「決勝戦」というものには、勝ち負けは二の次という性格もある。ふだんの実力差以上の大差がつくこともしばしばある。仙台育英は、決勝戦にたどりついたことで、十二分に力を証明した。こちらも、優勝してもおかしくない、強いチームだった。
今年の決勝戦は、異常な応援がこだまする空間で争われた。仙台育英の須江監督は、完敗を認め、慶應の応援の影響はなかったし、誰も応援のせいで負けたと1%も思っていないと述べた。それは、オンリーワンの立派な敗者<good loser>の姿であった。同時に、今年の決勝戦には、勝者も敗者もなく、ただ強い選手<good player>がいただけであった。ひとつのチームが優勝を遂げ、もうひとつのチームが準優勝を飾るという、輝かしい甲子園の最後の試合が、これまでの大会と何も変わらず行われた。

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