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役割だけの人生は、生への執着を生まなかった件。閲覧注意

明日私はこの世にいないかもしれない。解放される日まで、役割を全うしよう。

もし、そんな風に考える子どもがいたら、わたしはぎゅっと抱きしめてあげたい。

それは、「過去の私」かもしれないから。

・・・

今日もちょっとだけセンシティブな内容ですので、お化け屋敷にはいるぐらいの気合いで読んでください。いつでも途中退出可です♪

それでは、はいりますよー


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私は、去年のこの投稿をきっかけに、過去を完了させる自分プロジェクトをはじめた訳ですが、

約10ヶ月経った今も、自分の過去の問題の根の深さに、気を落とすことがあります。

実家を出て、一人暮らしを始めて。

自分のために生きる。自分の人生をはじめるんだ!!!

と、頭の中ではポジティブに考えている反面、時々、いつの間にか暗い部屋に呼び戻そうとする自分も現れます。


今日は、なぜだかぽろっと涙が出てきてしまったので、またこの場を借りてはき出そうと思い、筆を(というか指を)取りました。


***


そう、私は、生に執着がないんです。

(怒らないで。何がそうさせたのか、ちゃんと考えます。)


今までそんなつもりも意識も、なかったのですが。


だけど、いろいろと振り返ると、そんな節もあったのだなあと、思うことがあるのでね、思い切ってお話ししたいと思います。


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まず一つ目

冒頭にも書きましたが、「明日死ぬかもしれない」という前提で生きているということ。

いつからですかねえ。

いつ死んでもおかしくないのだから・・・と常日頃思っていました。

これは逆にポジティブなんじゃないか?と思われるかもしれませんが、感覚としてはネガティブです。今日どんなに頑張ったとしても、明日には私はこの世にいないかもしれない、という体感です。


これは、幼い頃の記憶に起因している、と思われます。

弟のお見舞いに、小児病棟に行ったとき。私が12~13歳の頃ですかね。

普段、学校で感じるエネルギーとは全く違う、運命に身を任せるような、ある意味天国に近いような、、、不思議な空間にいる感覚でした。


人間、与えられたいのちが平等でないこと。


小さないのちが必死に戦っている現場で、やんわりとその事実を受け取った私は、やっぱり"普通"では居られなくなりましたね(笑)

次の日ふつうに学校に行った日の、周りの子のなんっと子どもっぽいこと・・・

感情に任せて殴り合いの喧嘩をする男子に、嫉妬してヒソヒソ陰口を言う女子。私は内心で、「それが何のためになるの?今この瞬間も、必死に生きようとしている子がいるのに…」と思っていました。

そして、私にもきっと、いのちの終わりが来る運命が待っていて、それはもしかしたら明日なのかもしれないと、思っていました。


***

そして二つ目

何気なく、「死の瞬間」を想像をしていること。


(今、途中退出するチャンスです!!!!!)













手に持っているこの包丁の向きを変えたら?


このフェンスをよじ登って反対側に行こうとしてみたら?



単純に想像を膨らませていただけで、願望があるのとはまた違います。


えーと、これはでも、人間すべからく考えることなのかも?しれないですね。今どき映画じゃ普通ですもんね。

皆さんどうです?たまには考える?

こんなこと誰にも話さないから、自分っておかしいのかなって、不安になったりしません?


私が刑事ドラマ大好きなのも、頻繁に"その瞬間"が訪れるからなのかも。

かなりナチュラルに"その瞬間"が訪れて、最後には犯人がしっかり右京さんに叱られるんです。


こうゆうことを想像していると、想像のなかではあるけれども自分で自分を抹消しようとする自分を、誰かに叱って欲しいと思うんだよね。だからわたしの人生には、右京さんが必要だったんだなあと思います。

ちなみにドラマ「相棒」は、神戸君ころから見続けています。みんなが恋愛ドラマに夢中になっている高校生の時から、私は相棒一筋でした♥


ドラマ関連で言うと、一生懸命運命に抗う医療ドラマって、私見れなくて。

その時は突然にやってくる。現場をなまじ知っている自分にとって、現実的すぎて、その現実との乖離がまた、受け入れられないんでしょうね。


***


そんな私が、これまでやってこれたのは、まぎれもなく「役割」を与えられていたからなのです。


それは、健康体の自分が、「頼れるお姉ちゃん」であること。


難病を抱える弟や、ハンディキャップを抱える子どもたちを目の前にして、「自分は時間を無駄にしてはならない。」と思い、また、自分を犠牲にして子どもを支える母に対して「自分は人に迷惑をかけてはならない」と思い、私は一生懸命に自分を縛り付けてきました。

そんな役割にくくりつけた自分から、逃げ出すことも許さなかった。


毎日毎日、やらなきゃいけないこといっぱい。ま、明日死んだら楽だな。


決して死にたいと思った事はないんですが、こんな事を子どもながらに考えるのって、やっぱりちょっと、おかしいですよね。


ワクワクした未来を想像するなんてことは、ありませんでした。

***


そんなわたしですが、

生への執着が、芽生える瞬間が、最近少しずつ増えました。


それはもちろん、最近取り組んでいる「インスパイアラーズ」の活動がひとつ。

いろんな人がいて、むっちゃ楽しい。

生きてるって、いろいろで、人それぞれで、めっちゃオモシロい!!

自分も楽しんで良いんだ!と、自分の好きを超開放しています。



そしてもう一つ大きかった出来事。

それは、三浦春馬くんの死。


つらい思いを思い出させてしまった方、ごめんなさい。

だけどね、やっぱり理解が出来なかった。

自分の事は簡単に想像出来るのに、彼の死は全く想像が出来なかった。


相棒の脚本かけるんじゃないかってぐらい、自分を滅亡させる想像力が豊かな私が、彼の死を全く描けなかった。


いいよ、もう、そしたら、生きてやろうよ


どうしても理解が出来ないもどかしさから、いつの間にかそんな風に考えていた自分がいました。


これもまた、彼がもたらしてくれた、いのちのキセキでした。



***

こんな私を、まったく理解できないという人は、それで良いんです。

理解しようとせず、そのままでいて下さい。

勝手に「役割」を作らないで下さい。


「みんなが幸せに暮らせる社会を作らなきゃ!」

いやいや、あなたがやらなきゃいけないことなんてないんです。

あなたはあなたのままでいい。


あなたが、私が、あるがままにいる社会が、

みんなが幸せに暮らせる社会なんだ、と思います。


今日私がこぼした涙も、明日を生きるために流れ落ちた、結晶だったんだ。

悲しい、苦しい、辛い、嬉しい、楽しい、幸せ・・・

どんな感情も、全部が明日のわたしをつくる要素。


ということで、また明日もキセキを味わいましょ♪


在ること、ただそれだけで、価値のあることなのです。


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