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【掌編小説】わすれな草

「運転手さん、この辺りで止めてくださいな」
 老人は、タクシーの運転手に言った。声を出す、のではなく、声を引くような声色であることから、彼が相当な高齢であることがわかる。

 冬の盛り、吹雪く山間に老人はひとりで来ていた。
 この山脈のどこかに、春を待つことなく、わすれな草が群生していると知っているからだ。
 老人にもまた、春が来る前にわすれな草を摘みに行かなければならない理由があった。
老人は医者から余命宣告をされていた。もういつ逝ってもおかしくない体だそうだ。
 彼は生きている内に、わすれな草を摘んでおきたかった。
 それは、去年旅立った妻にまだ意識があった頃、床に伏した彼女が彼に手渡したのが、わすれな草だったからだ。
 あれだけ衰弱していた彼女が、どうやって、わすれな草を摘んできたのかはわからない。
 それよりも、彼女が自分にわすれな草を渡してくれたそのメッセージを、心の奥深くに刻んで生きようと彼は思った。
 花言葉は「私を忘れないで」。

 その日も、真冬だった。
 その日と同じ吹雪が、家の窓ではなく、今日はタクシーの窓を叩いている。

 妻からもらったわすれな草は、とうに枯れてしまっていた。押し花などにして保管しようとも考えたが、どうも彼には加工する……つまり、草の生命を絶つことが、彼女の想いを断ってしまうようでできなかったのだ。
 その枯れ草は、今も妻の遺影の横の一輪挿しに飾ってある。
 彼は、妻に「あの日と同じように、妻のことを忘れずずっと生きてきた」と証明したいのだ。だから、あの世で会ったときに、枯れたわすれな草を持っていくわけにはいかない。
 あの日、妻が渡してくれたままの、想いが生きたままのわすれな草を持って行きたいのだ。
 死期が近い。
 もうすぐで妻と会える。
 急がなければいけなかった。

「この辺りって、何もないですよ、お客さん」
 タクシーの運転手が、ドアミラー越しに訊ねる。
「いえ、花が咲いてるもんですから」
 老人はそう言いながら、一万円札何枚かを輪ゴムでまとめたものを取り出そうと、ポケットをまさぐる。
 しかし、指の感覚が鈍く、広すぎるポケットの中ではなかなかそれを掴めない。
「花って、わすれな草のことですか?」
「ええ、そうです。有名なんですねぇ、穴場だと思っていた」
 老人は依然としてまさぐっているが、金を掴めない。
「いえいえ、この辺の人でも知る人はいないですよ。何せ、咲いてるったって山間のほんの一畳分だけですから。知っていても、春先まで待って、もっと開きのいい花畑に行く人が大半でしょう。今時期にここに摘みに来た人も去年ひとりいましたけれどね、それ切りですよ」
 運転手は思い出して、振り返り続けた。
「ああ、そうそう。その方も、お客さんと同じ歳頃の方で、女性でした。もう命が長くないから生きているうちに旦那に渡したくて、なんてことを言っていました。愛の深さを知りましたよ」
 老人の手が止まる。運転手の方を何かに気付いたように向く。
「その人の、名前は……」
「名前までは伺ってませんなあ、すみません。お心当たりが?」
「おそらく」と発すると、老人は声詰まらせた。
「妻です」
 涙声を絞り出したあと、老人はうなだれる。
 体中が痛いはずなのに、温かさと慈愛と悔しさがないまぜになったものが、痛みを感じさせずに震わせている。
「奥様でしたか」
 運転手の微笑みには目もくれず、老人は泣き続ける。
 あの頃には既に妻の体は衰弱しきっていたはずだ。その体に鞭を打ってまで、この山の中に摘みに来ていたのか。
 そこまでして、私に伝えたかったのか。
老人が、そう思えば思うほど、涙は流れた。
しかし、老人の中にひとつの悔しさが込み上がっていた。
 もしかしたら、その無理が祟って病を悪化させてしまったのかもしれない。
 当時も同じ運転手だったなら……と怒りが湧いてきた。
「どうして妻を止めなかった。誰が見たってこんな吹雪く中雪山を登って、帰って来れる体でないことは明らかだったはずだ。あんたが殺したようなもんじゃないか」
 老人は言葉にしていながらも、これが八つ当たりだということはわかっていた。しかし、悔しさは自分を責め、それを吐き出さねば破裂しそうなのだ。
 運転手は、対して冷静だった。
「止めませんでした。ここで野垂れ死んでも花とともに伝えたい想いがある、というのがあのお客さんの意志でしたから。ですから、お客さんのことも止めません」
 老人は弾くように運転手の肩を掴んだ。その力はひ弱なものだが、熱を帯びていた。
「妻の意志だったとしても人が死んでいいわけ無かろう! 何が愛の深さだ! 私との話を聞いていたのなら、妻が死んでまで花を受け取りたいと思う旦那なぞいないことなどわかるだろう!」
「おっしゃるとおりですよ」
 運転手の眼差しは鋭く、老人に涙目に向いている。
 老人は「ならばなぜ」と弱々しくまたうなだれた。
「奥様にお話したのです。今のあなたがこの山にわすれな草を摘みに行けば、確実に凍え死ぬと。旦那様の悲しみと、わすれな草で伝えたいメッセージとを天秤にかけてみてほしいと」
 運転手は、そっと老人のうなだれた背中に手を乗せ、続けた。
「すると、奥様は長く迷った末にこうおっしゃいました。
天秤にかけることはできない、生きてわすれな草を渡したい」
 運転手の平がじんわりと温かくなり、背中から手足の先まで熱が伝わるのが感じられた。
「お客さんは、天秤にかけられますか」
 老人は心地の良い眠気の中で、声を絞り出した。
「私だって、生きて戻って、妻の遺影に、花を添えたいよ」
 運転手は「わかりました」と微笑み、老人をゆっくりと肩から抱きしめた。

「あなた方のようなご夫婦に見つけて頂けて幸せです」

 老人は寒さで目を覚した。
 玄関先で妙な体勢で寝ていたからか、体中が軋む。老体にはあまりにも辛く、身を起こすのもひと苦労だ。
 もしこの体で、わすれな草を摘みに行っていたら、自分は確実に遭難していただろう。そうなれば、妻が悲しむと心から思えていた。

 手に、真っ白な花を儚げに咲かせたわすれな草があるのに気付いたのは、身を起こしてからだった。
 その草からは温もりを感じられ、摘まれているのに、手の中で生きているようだ。
 なぜここにわすれな草が、という疑問は抱かなかった。
 きっと妻が、ちゃんと綺麗に咲いてるものを持ってきてほしい、でもちゃんと生きてほしい、と言ってくれている気がしたのだ。
 老人は遺影の横の一輪挿しに、妻が渡してくれたわすれな草の枯れ草の隣に、命を歓ぶそのわすれな草を挿した。

 ドイツでは、わすれな草の花言葉にこんなものがある。
「花が何を話すのか聞いて」

 日本のどこかの、とある老夫婦にまつわる寓話である。


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【罪状】窃盗罪

人んちの山の花を勝手に刈ったため。

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