見出し画像

【短編小説】フライト心中

 どこまでお話ししましたかな。
 ああ、そうそう、家内の話だ。よく出来た家内でしてねえ。二十歳も離れているのに、落ち着いた気品があって。私がまだ現役でパイロットをしていた時なんかは、「今日は夜間飛行だから帰宅は深夜になるよ」と伝えて家を出ても、帰れば必ず飯と風呂を用意して「お帰りなさい」と迎えてくれました。たばこを出せば横からスッと火をくれて、私のつまらない世間話に黙って頷いてくれる。たまに酒に酔うと、正座でうつむき加減に私に寄り添うんだ。その様がまた白鳥が微睡むような綺麗さでね。雪にカンナをかけたような白さ、なんて言うが、家内の肌はまさにそれなんです。あなたが家内に惚れるのも無理はないと――ああ、失敬。惚気話が過ぎましたな。まあ子供はできませんでしたがね、私には家内がいればそれで十分だったわけです。

 生前、家内はよく「いつか、私も自由に空を飛んでみたいわ」などとこぼしていました。「軌道に沿って旅客機を操縦しているだけだから、別に好き勝手飛んでいるわけじゃないんだよ」なんてそっけなく返していましたがね。今考えれば本当に無粋だ。
 表向きじゃそんなでも、家内のささやかな夢を聞くたび、内面では嬉しかった。私だって社の規律に囚われず、思いのままに空を飛んでみたいとは思っていた。家内と私の夢が一緒だと噛みしめるたび、引退したら軽飛行機……セスナ機と言った方が馴染みがありますかな。安く借りて二人きりで空を飛び回ろうと、妄想に胸を躍らせたものです。

 そして遂に老後。
 都心のマンションを引き払い、この山中に越してきました。周りにあるのは、田んぼを挟みながら点々と建っている数軒の民家と、十字架の看板が錆び付いた木造の教会だけ。コンビニに行こうものなら、たぬきやイタチに気を付けて一時間は車を走らせなきゃならない。
 ここはそんなところですから、いくら騒いでも迷惑がる人はいません。個人用のエアポートを建てるにはうってつけだったわけです。
 へへ、退職金と貯金を全部叩いて建てたんですよ、エアポート付きの別荘。軽飛行機が一台ギリギリ停められるくらいの小さなものですがね。全て私と家内の夢のため。ですから、どうにかして軽飛行機も手に入れました。中古ですがね……え? いえ、レンタルじゃないです、結局買ったんです。いやあ、目玉が飛び出るほどの値段でしたがね、ローンを組んでどうにか我が手にね。

 私も家内も、納品される様子を涙を流しながら見ていたのを覚えています。
 快晴でね、空気も澄んでいて……まあこの辺はいつだって澄んでいるんですが、その日は特別でしたよ。青空の向こうに世界が全部見透けるような天気だった。
 飛行機雲を指さした家内が「私たちも直に、あんな風に空を切って飛べるのね」としみじみと言っていましたな。今でもこの時に多少馬鹿になってでも無理をして軽飛行機を買ってよかったと思っています。思っていますがね。この時にした無理が、事の始まりだと思うと……いやそうだとしても、悔いはないか。

 数年経って、両の足を悪くしましてね、見ての通りの車椅子生活になりました。いえ、案外不自由ではないんです。移動は手でタイヤを回せばできますし、トイレも吸水パットがあれば一日中持つ。そんな生活が続くと、面白いもので、足は衰えていきますが腕の筋肉はどんどん発達していく。恐らく今は、若い頃と同じくらい握力がありますよ。
 苦しくなったのは、身体的なことではなく、金銭的なことでした。軽飛行機の維持は莫大なものです。そんなこと、承知の上で買いましたから、老後も大学の講義や講演に頻繁に出掛けて、小銭を稼いでいました。現役時代に機長をやっていた人間は引退後も、航空専門学校の講師に呼ばれたり、地域の講演会に呼ばれたりって、需要があるんですよ。 
 それが、車椅子になってからは三分の一ほどしか伺えなくなりましてね。家内も働いてくれていましたが仕事を減らして、私が講演会に行く際のアシストをするようになった。結果、収入は激減。維持費は愚か、ローンなんてとても払えたもんじゃない。まさかね、叶えた夢の借金で首が回らなくなろうとは、ははっ。笑い話ですよ。
 私は半ば諦めてたんですがね、家内はあがいてくれました。日中、私の付き添いをして、夜は仕事に出るんです。遅くに出るとは言っても、水商売をしていたわけではないようで、服装も化粧も普段のままでした。それに、他の男に媚びを売るような性格じゃない。
 思い込みと笑わないでいただきたいのですが、家内は私だけを愛してくれていたと思います。家内が仕事に出ている間に、私が転んで車椅子に戻れなくなったことが二、三度ありましたがね、電話をしたらすぐに駆け付けてくれましたよ。「仕事の途中に悪いね」と私が言うと、家内は「いえ、今日はもう上がってきましたから。怪我は?」と、それから一晩付き添ってくれた。私にここまで尽くしてくれる家内が、どうして他の男に媚びを売れましょうか。
 しかし、さすがに一主婦の仕事では、賄える額ではございません。家内には「お前のおかげで、どうにかまだフライトが楽しめそうだよ」と言っていたものの、どうにかできたのはローンのみ。維持費は何一つ賄えていない。家内は飛行機の維持にいくらかかるかなんて、細かい数字までは知りませんからね。
 でも、軽飛行機を手放す気はありませんでした。私と家内の夢の結晶ですから。家内もきっとそれは望まないはずです。
 借金が膨れるにつれ、家内と軽飛行機、この二つと、今のまま死ねるのならこれ程幸せな事はない、思うようになりました。それを叶えるのが、軽飛行機操縦中での心中だったんです。
 家内は飛行機の費用がどうにか賄えていると思っているし、何より私たちが愛した空で散れるのは、家内にとっても本望だろうと。今からしてみれば、気が狂っていましたよ。しかし、当時は妄信してしまっていますから、思い立った次の日に家内をフライトに誘ったんです。当然、心中目的などとは言わずに。

 仕事は夜からでしたので、「夕方まででいいかしら」と誘いに乗ってくれました。家内の声は浮き立っていましたよ。
 家内の手を借りて、というよりは腰やら足やらを持ち上げてもらって、何とか操縦席に乗りました。車と違って、手ですべて操縦できるのが飛行機です。壊れたのが手ではなく、足だったときは神に感謝しましたよ。
 助手席に家内が座り、準備オーライ。先ほども言ったように、維持費が賄えていませんでしたからメンテナンスが行き届いていません。飛ぶまでになかなかエンジンが回らず時間がかかりました。
 どうにか飛び立ってからは、近所の教会の十字架があっという間に小さくなっていきました。ともかく遠くへ、飛べるところまで走ります。
 私のプランはこうです。燃料が尽きるまで片道切符で空旅行を楽しみ、燃料が尽きたところでそのまま落下。気が変わらないように、パラシュートや携帯などの非常用具は置いてきました。
 燃料が尽き始めたのは、二時間半後。燃費もかなり悪くなっていたのでしょう、意外と早くてがっかりしました。マフラーがブスブスと鳴き出し、家内の顔色が変わっていきます。
 「黙っていて悪かった」と切り出し、私は事の顛末を話しました。 
 なぜお前と、この軽飛行機と死にたいか。家内との思い出は、二時間半のフライトで語り尽くしていました。その語った思い出こそが、理由だと伝えました。実は費用が賄えていなかったことも話しました。もう墜落まで時間がありませんでしたが、私は落ち着いて家内に感謝と謝罪の想い込めて、届いてくれるよう言葉を吐き出しました。
 ですが、どうも家内の様子が変なんです。いや、そりゃあ、空の上で心中の告白をされて冷静でいられる人などいないとは思いますがね。焦るなり、悲しむなり、そういう様子じゃなく、言動がおかしい。
 家内はいつもよりも少し早めに頷いて、私の話を制止するようにこんなことを言い出したのです。

「あなたが望んだことを否定するつもりはないけれど、死後のことはちゃんと考えたの」

 悲しむ人がいるじゃありませんか、とでも続けるのかと思ったら、そうじゃない。ましてや土地や財産の話でもない。

「救われてもいないのに心中なんて図ったら、火の池行きを早めるばかりじゃないの」と。

 私は返す言葉もなく、家内を見つめてうろたえていました。
 まず、何を言っているのかさっぱりわからない。救われる? 火の池? こんな状況ですから、気が触れても仕方ないですが、どの気がどう触れたらあの家内から「火の池」なんて単語が生まれるのか。
 家内は私の様子を察したのか、「こう言ってもわかりませんよね。付け焼刃ですが、私があなたの分も祈っておきますから」と言って、ポケットから手のひらより一回り小さいくらいの十字架のペンダントを取り出しました。そして目をつむり、ブツブツとおもむろに唱えだしたのです。主がどうたら、何とか給え、と。
 私は家内がキリスト信者になっていたなんて、知りませんでした。きっかけは近所の教会でしょう。
 二人の収入じゃ到底借金が返しきれないことや、両足がほとんど動かない私の介護のこと。家内にとって、気鬱の種は山ほどある。きっと、自分じゃ抱えきれなくなり、ふと教会に助けを求めたんでしょう。よく出来た家内だなどと、家内と私の夢は一緒だなどと、家内を自分の理想で固めて、家内の人生を自分の人生の食扶ちにしていたことに、この時ようやく気が付いたのです。
 操縦かんから手を放し、「申し訳ない」と頭を下げました。返答の代わりに聞こえたのは、祈りの言葉。
「主よ、われらを救い給え」
 家内が言い切る前に、飛行機は急降下していきました。

   *
 

 目を覚まして、初めに見たのが家内の遺体と大破した愛機でした。
 日はすっかり沈んでいましたが、月明かりだけでも十分周りが見渡せるほどの明るさで。木々の中心で、家内の背中が逆側を向いていました。ようやく、「ああ、落ちたんだ」と気付き、ここがどこかの島、もしくは山の森だということも分かりました。
 家内だけが死に、私は生きてしまった、ということも理解しました。恐らく私は墜落途中に投げ出されて、運よく木の枝をクッションに落ちたんでしょう。
 不思議なもんで、何の感情も湧きませんでしたよ。ただただ放心して家内を見つめるだけ。変に冷静なんです。でも、何か思おう、考えようという気にはならなかった。夢の軽飛行機と家内が両方とも目の前で壊れている様に、脳が追い付いていなかったんでしょうな。
 数十分はそのままだったと思いますね。その間にぐぅーっと大きく鳴った腹の音で、我に返ったんです。周りに何か食うものはないかって、這いずり回って食べ物を探し始めたんです。さっきまで心中しようとしていた人間とは思えないでしょう。
 足が動きませんから、木の上のものは採れません。木の根元に生えているキノコを無造作にちぎって食べましたよ。毒があろうがなかろうが、その時は関係ない。食欲のまま口に詰め込みました。
 満腹には程遠いですが、胃袋にものを入れたことによって、思考が回復してきましてね。家内が死に際にキリストに祈りを捧げていたことを思い出して、泣きましたよ。家内のことを何もわかっていなかった自分が情けなくてね。家内の亡骸まで這って行って「申し訳ない」と何度も絶叫し続けました。
 涙も枯れようという頃に、また私は死のうと思い立ちましてね。でも死ぬ術がないんです。こんな体ですから木に登って落ちることもできませんし、首をくくることもできない。舌を噛み切ろうともしましたが、そもそも自制心が働かないように空での心中を図ったところもありましたから、痛みに耐えきれずやめてしまいました。
 ふと、死ねた家内が羨ましくなり目をやると、右手で何かを強く握っています。十字架のペンダントでした。家内にとって、死とはどういったものだったのでしょうか。家内は所謂「救われた存在」だったのでしょうか。もしかしたら、私が心中をしようと思っていたことを察し、死後の保険でもかけていたつもりだったのでしょうか。そんなことを思っている内に「入信して気が楽になるのなら、私にも教えてくれればよかったのに」と寂しくなってきたのです。
 そうです。そもそもなぜ、家内は私にキリストに信心を持ったことを教えてくれなかったのでしょう。考えてみれば、私のことで悩んでいたなら、悩みの種である私に対処法を共有してくれてもいいはずだ。初詣にも行きますし、盆には墓参りもしますが、特別贔屓にしている宗教があるわけじゃない。むしろ、現役のころはフライト前に必ず「安全飛行できますように」と神に祈っていたくらいだ。そのことはよく家内も知っている。何か、私に教えられない理由があったんじゃないだろうか。
 ひとつのことを疑うと、他の事柄にも疑念を持ちはじめましてね。
 家内はいつ教会に通っていたのでしょう。私は不自由の身だ、基本は家内が世話をしてくれています。しかし、日に一度だけ家を空けるときがある。夜、仕事に行くときです。この辺で働ける施設などありませんから、私はてっきり車で街まで走らせているものだと思っていましたが、今となってはそれも疑わしい。私が家で車椅子から転げ落ちて、電話で家内に助けを求めた時に、ものの十分ほどで来てくれました。コンビニまで車で一時間かかるような山中、しかも夜道を通って十分で街から帰って来れるわけがない。それが近所の教会なら、納得がいきます。
 それでも事実、維持費までは賄えなくとも、家内の給料を足しにローンを支払えていたわけです。働きに行っていないのなら、どうやって稼いでいたのか。
 教会から工面してもらっていたと、簡単に結論付けることもできますが、田舎の集落において我々は新参者です。そう易々と大金を貸してくれるとは思えない。ならばどうやって――。
 ここまで考えて、胃酸が腹から上がって来ました。怒り、悲しみ、寂しさ、いろんな感情がない交ぜになって、頭の中に血をたぎらせているのがわかりました。
 家内の収入源は、身売りだ。そうとしか考えられません。教会の人間に体を売って、毎日大金を得ていた。私にキリストへの信心の話をしなかったのも、教会通いをしているのを知られることで、不貞がばれるのを恐れていたんだ。仕事と偽って家を出るたびと考えると、その教会の人間とはほぼ恋仲と言ってもいいくらい親しくなっていたのでしょう。
 私の借金が家内を狂わせたのでしょうね。しかし、家内の不貞を許せるほど私は出来た人間ではない。怒りに打ち震えながら、既に冷たくなっている家内首に手をやります。家内を狂わせた罪悪感から逃げるように、思い切り力を入れます。その時でした。

「自由に空を飛んでみたいわあ」

 咄嗟に手を放しました。死んだはずの家内が口を利いたのです。ですが、私の手から離れた家内の首はだらりと垂れている。幻覚でしょうか。それとも、家内の魂? だとすると、自由に空を飛んでみたいと、なぜ今私に伝えたのでしょう。
 この言葉は先ほども申し上げたように、家内の夢であり、私の夢に変わったその発端です。つまり、元は家内の夢だ。私の中でその言葉は、「あなたの借金は私の夢をかなえるための借金。全ては私のせい」と言っているように思えたのです。
 神が私を救うために、家内に少しだけ魂を呼び戻し、この言葉を言わせたのでしょう。 
 そう納得した途端、視界が明るくなりましてね、本当に。パーッと光が目の中に入ってきたんです。不思議なんですが、だんだんと森の奥から光る十字架が近付いて来るんです。気が触れたんじゃありませんよ、今でも鮮明に覚えているんです。
 目の前まで十字架がやって来てわかりましたが、それこそ私が乗っていた軽飛行機ほどの大きさでね。私に向かって十字架がこう言うんです。

「あなたは救われた」

 ああ、私は救われたんだ、と受け入れると涙が自然にボロボロ出てきて、とてつもない多幸感が体中を駆け巡りましてね。こう、家内と出会い結婚したことも、軽飛行機を買って個人用エアポートを持ったことも、心中を図って生き延びてしまったことも、すべて肯定されたような感じといいますか。
 その内、体が浮いて、胸から出てきた魂が空を飛び立ったんです。
 ありがとうございます、ありがとうございますと、心の中で何度も何度も繰り返していると――。

 
 
 「おい、大丈夫か」と見知らぬ男に揺り起こされました。気が付いたら、夜が明けていた。十字架はそこにはなく、大破した軽飛行機と家内の亡骸が事故を起こした時のまま残っていました。
 男の人はこの山を猟場にされている猟師の方で。ここはどこか聞いてみたら、自宅から車で二時間ほど走れば着く山でした。もっと遠くへ来たかと思っていたのですが、ろくにメンテナンスをしていない軽飛行機じゃ大した速度も出ずに、上に行ったり下に行ったりしていただけだったのでしょう。
 私は警察に保護をされるといろいろと面倒だと思ったので、一旦自宅に帰りたいと言いました。理解ある方でね、「突然家内を亡くした悲しみがあなたにわかりますか。一刻も早く、ここから去りたい。変わり果てた家内の姿を見ていたくない」と泣いたら、タクシーを手配してくれましたよ。わざわざ、タクシーまで私を担いで運んでくれました。猟師さんは力がありますなあ。
 これはついさっきの話です。一旦家に帰ってから、車椅子でこの教会にやってきたというわけです。
 懺悔ではなくて申し訳ございません。ただ、他の目に触れないところで、神父さんに聞きたいことがありまして。
 私が見た巨大な十字架、あれは神でしょうか。

■■■

 木目の黒ずみが目立つ教会は、築四、五十年といったところか。ステンドグラスもどことなく黄色がかっていて、差し込む光でベンチに映し出される色調の方が余程カラフルだ。隙間風の音と、老人の枯れた声だけが教会内に響く。
 暗がりの懺悔室には、引き戸の窓があり、椅子が一つだけ置いてある。老人は車椅子で来ていたため、椅子は外に出されていた。
 老人の問いに、落ち着いた口調で神父が答える。老人が窓から見えるのは懺悔室の外にいる神父の手元だけだ。
「ええ、紛れもなく。それは主、キリストでしょう。ですが、あなたの前に現れたのは、全てを許すためではないと思いますよ。あなたは、救っていただけるチャンスを得たのです。まずは自首をして、しっかりと罪を償いなさい」
「自首? それは、景観破壊ですとか、そういったことですか」
 眉をひそめる老人に、ため息交じり神父が返す。
「心中を図って、奥様だけがお亡くなりになられた。しかも奥様の明確な意思を聞かないまま、心中を行いました。これは無理心中、殺人です」
「あなたは家内のことを、奥様とお呼びになるんですか」
 老人は卑下した笑い声を上げる。神父は依然落ち着いたまま、話を続ける。
「私が奥様にお金をお貸ししていたのは、事実です。奥様は立派な信者でありましたから、信頼もありましたのでね。しかし、そこから先は被害妄想です。私が信者に手を出すなど」
「随分、家内はそちらにお邪魔していたみたいですなあ。夜中にも関わらず。他の信者の方がいない隙を狙ってですかな」
「それは、日中は旦那様のご介護があったからでは。教会はいつ来ても迷っている方を受け入れます」
「では、なぜ私にこの教会に通っていることを黙っていたのだ」
 老人の言葉に怒気が含まれる。
「宗教とは非常にデリケートな事柄です。旦那様にお話しする勇気はなかなか出ませんよ」
「のらりくらりと、かわしますな。まだありますぞ。家内は給料を仕事に行った日、いや教会に行った日は現金で都度持ってきていた。それも数万の大金をね。お金を貸してくれるなら、まとめてお貸し――」
「いい加減にしなさい」
 神父は窓から顔を見せ、老人を睨み、言葉を続ける。
「ショックを受けるかもしれませんが、奥様は確かに、体と引き換えにとお金の工面を要求してきたことは何度もあります。しかし、私は断じて拒否をした。お金を毎日小分けで渡したのも、日ごとに要求をしてきたからだ」
 一息つく神父を見て、老人は何かを言おうとする。それを神父が遮る。
「あなたは幸運にも、神の姿を見られた。信者の方でもそうそういないですよ。自首をされて、ちゃんと罪を償えば、神は必ず救ってくださいます」
 老人は口をつぐみ、俯いた。沈黙の中、風が窓ガラスを叩く音が投げ込まれる。
 神父の顔が窓から外れ、再び手元だけが見えるようになる。老人が言った。
「自首ですか……。わかりました。足が不自由なのでね、神父さんの方で警察を呼んでいただきたい。ああ、その前にね、煙草を一本吸わせてくれませんか。禁煙なのはわかっているんですが」
 老人は懐から煙草とライターを取り出す。神父は、優しく「どうぞごゆっくり」と返して、電話口に向かおうとしたが、「神父さん、お願いついでに、もうひとつ」。呼び止められ振り向くと、懺悔室の窓からライターが出ている。
「家内はね、毎回私が煙草を出すと火を差し出してくれた。家内を亡くした今日の今日、自分でつけるのは寂しくてね。申し訳ないんですが、火をつけてはくれませんか」
 老人の願いを、神父は快諾する。
 ライターを神父が受け取ろうとした瞬間、老人が神父の腕を窓への引き寄せる。その力は神父の想定していた老人のそれではなかった。
 腕を掴んだまま、老人はオイルを染み込ませた自分のシャツに火をつける。途端、火柱が窓から吐き出され、瞬く間に神父の顔までを覆った。神父の叫び声が響く。
 燃え上がる懺悔室の中で、老人は苦痛の表情を見せずに、擦れた声で言った。
「家内が、自ら、体を差し出すわけが、なかろう」

 木造の教会全体を炎が包むまで、時間はかからなかった。十字架が火を上げている様は、老人の見た光の十字架に似ている。
 教会が倒れ、大量の火の粉が天に漂い、自由に舞い上がった。

■■■

 山間での自家用飛行機の事故は、その日の内に報道され、男は行方不明とされた。その山がマジックマッシュルームの密生地であることを報道する局はなかった。



○●○●○●○●

【罪状】鳥獣保護管理法違反

自称猟師の男性が常習的な密猟をしていたため。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?