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【掌編小説】宮野山の神様

【『シロクマ文芸部 お題:始まりは』参加作品です】

 始まりは、山肌に大海のように生い茂る桜の花の向こうから「おーい」と声が聞こえたことからだった。
 桜の絢爛さとは不釣り合いな、しゃがれた、潰れたような、それでいて腹の奥から捻り出したような男の声。
 当時、小学生だった僕は『山には神様がいる』という伝説を信じ切っていて、その声の主を神様だと思った。初めてひとりで外に遊びに出かけたのが、その宮野山公園だったことも何か運命的なものを感じ酔っていたのかもしれない。何よりーー。
「神さまですかー」
 そう僕が呼びかけると、
「そうだー」
 と、返ってきたのだから。
 その返答への怖さと驚きと好奇心が全て混ざりあった感情を鮮明に覚えている。
 僕がわなわなしていると、神さまから言葉が飛んできた。
「そこで何をしてるんだいー」
「たんけんー」と素直に、大きな声で答えた。
 神様との会話は案外簡単に成立し、「桜は咲いてるかいー」「宮野山の桜は綺麗だろうー」「ひとりなのかいー」など、なんてことない問いかけに答える時間が楽しかった。
 もう40年も前の話だ。その時に、桜の渦を纏って絵描き筆が現れなければ、今僕がこの宮野山に再び足を踏み入れることはなかったように思える。
 その絵描き筆をきっかけに風景画を描き始めた小学生の僕は、コンクールを軒並み受賞した。自分で言うのもなんだが、神童と呼べるほどに芸術の才能があったように思える。
 しかし、周りの多くの大人たちから褒められたのは歌声だった。それを受けた母が僕を少年合唱団に入団させる。それからというもの、家で絵を描くことは禁止され、中学、高校と合唱に熱を入れるように。その内に、ソロでも歌うようになり、レコード会社からのスカウトでトントン拍子にデビュー。キャッチフレーズは『ソプラノの神』。あっと言う間に当時の歌謡界の第一線を走る歌手となったのだ。
 だが、絵を捨てた時には既に神様から僕は見放されていたのかもしれない。
 急性大動脈剥離。40代半ばにしては重すぎる大病だった。生死を彷徨う手術は成功、リハビリも順調に進み退院。命を維持するには何の問題もない奇跡の回復だ。
 しかし、問題は声だった。大動脈瘤が声帯を圧迫したせいで、声を思うように出せなくなったのだ。日常生活での会話は多少の聞き取り辛さがあるほど。だが、歌手として生きていく道は絶望的となった。
 命は拾えた。しかし、拾えた命を生かす場所がなくなった。
 半生を歌だけに費やした自分を憎んだ。生きていく術を失ったと思った。
 それを救ってくれたのが、かつて絵を描き始め、泣く泣く手放した絵描き筆だったのだ。
 僕はひたすらに絵を描くことで、心の穴を埋め、拾った命の道標を示した。家の周り、散歩のコース、鳥や動物、目につくものをあらかた描いたところで、僕はこの絵描き筆を手に入れた宮野山へ行くことを決心したのだった。
 これから新しい、絵描きとしての人生が始まる。そのスタートを切ってくれたあの桜を描きたかったのだ。
 しかし、40年ぶりに足を踏み入れた宮野山は様変わりしていた。いや、厳密に言えば、僕が神様と話したあの山肌の桜の木々だけが伐採されていたのだ。ゴルフ場建設の手付けがここらしい。
 寂しかった。寂しかったが、その寂しさを埋められる術を知っていた。
 絵の中で桜を咲かせよう。
 拓けた山肌の前にキャンバスを立て、僕はかつてあったそこの桜の木を描き始めた。
 筆は進む。鮮明に覚えている。色も空気も神様の声も。
 神様にこの姿を見てほしかった。あなたのおかげで今を生きていられると証明したかった。
「おーい」
 神様に呼びかけた。僕はここにいる。あの筆で絵を描いている。
 山肌を風が撫でる。しかし、揺れる桜並木はもうない。
「神さまですかー」
 ハッとキャンバスから顔を上げる。
 声がした。あの頃の嗄れ声とは打って変わって、かつて僕がソプラノの神と呼ばれていた頃のような少年の声。
 神さまと呼ばれたのが、皮肉のように感じたが、僕は返答した。
「そうだー」
 わかっている。この声は神様の声ではない。もっと潰れそうな声だったはずだ。
 しかし、少年はどこから声を発しているのだろう。
「そこで何をしてるんだいー」
 僕はなけなしの声量を押し出して呼びかける。
「たんけんー」
「桜は咲いてるかいー」
「満開だよー」
 少年は桜並木が連なる山肌の向こうの遊歩道にいるらしい。
「宮野山の桜は綺麗だろうー」
「とっても綺麗ー」
「ひとりなのかいー」
「うん、ひとりー」
「寂しくないかいー」
「寂しくないー神さまと話せてるからー」
 会話をするうちに、沢山の懐かしさが降り注ぐ。それはこの場所へのもの、だけじゃなく、少年が自分の声を神様のものであると信じているその好奇心にもだ。
 少年が声高々に続けた。
「神さまならなんかしてみせてよー」
 可愛らしい無茶が、僕の心をくすぐった。喉をおかしくしてから、久しく期待なんてされていなかった。
「そうだなあー桜をもっと咲かせてみせようかー」
「そんなことできるのー」
「できるさーゆっくりこっちに上がって……」
 その瞬間だった。
 竜巻が散り散りになったような突風が山肌に吹きすさび、砂埃を舞い上げた。
 ああ、そうか。思い出した。
 僕が少年の頃、同じ会話をしたんだ。
 神様はそう言って、僕の目の中を一瞬にして桜色にしたんだ。桜吹雪が四方八方から押し寄せて、風の波ができた。
 その景色を、描きたかったんだ。
 僕は少年の声のする方へ絵描き筆を放り投げた。彼はきっと、僕よりもその景色を上手く描ける。今見た感動をそのまま表現すればいいのだから。
 今忘れられつつある宮野山の桜を、君が見たまま残せばいいのだから。
 絵描き筆は弧を描いて、桜色に散って消えていった。
 
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【罪状】不法投棄

絵描き筆を山に投棄したため。

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