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『ハンチバック』のその先に

 わたしは「聴覚失認者(聴覚情報処理障害者)の『リプレゼンテーション』を試みようとしているのですが、そしてそれが、どんなものだと解釈しているのかを書いてみたい誘惑に、今、駆られているのですが――理系ベースの研究では『検証すべき仮説の提示』に当たります――止めておきます。もうすぐ最初の聴覚失認者のお話が聞けるのですから、それからにします」(「リプレゼンテーション」)と書いたのですが、これは簡単なことではないと気が付きました。音声文字変換ソフトをつかって「最初の聴覚失認者のお話」は聞けました。聞けたのですが、どのような医療を受けてきたかとか、そのときの医者や看護師の対応に満足できたかといった表面的なことを聞いても、何のためにそんなことを聴くのかという研究のエッセンスが曖昧なままなのです。

 わたしは人類学としてインタビューをしたいのですから、最終的には、その方が聴覚失認者(聴覚情報処理障害者)になって変わった人生観といったものが明らかにならないと学術的なものをまとめるのは難しそうです。そこで関連書を読み直して、わたしはどんな理由があって、そんなプライベートなことまで聴きたがっているのか再考しています。再考の結果は、また機会を改めて聞いていただくつもりです。

 ここでは『ハンチバック』の話題です。

 『ハンチバック』は、すでに多くの読者が感想を書いています。まだお読みでない方のために、ごく簡単に紹介しておきます。『ハンチバック』の著者は市川沙央さんとおっしゃいます。筋肉の力が少しずつ衰えていく「先天性ミオパチー」という病気の当事者です。先天性ミオパチーの当事者は関節の拘縮(こうしゅく)や脊柱の変形が起こるため、移動が困難になります。そのため市川さんも電動車イスを使います。また横になるときは人工呼吸器が欠かせません。

 その市川さんが書いた小説は、まるで市川さんにそっくりな井沢釈華(しゃか)が主人公です。釈華は、金持ちの両親が残してくれた、障害者のためのグループ・ホームで暮らす資産家です。そのホームの中で、インターネットで通学できる通信制大学に在籍して論文を書き、それ以外はWebライターとして、空想で作り上げたポルノ小説まがいの記事を書いています。そんな釈華はSNSの裏アカウントに「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢」とつづります。しかしある時、グループ・ホームのヘルパーである田中さん――男性です――に、その裏アカウントが覗かれていると知ってしまいます。そして、普段はもめ事を起こさない小市民的な釈華に、思いもかけない出来事が起こるのです。

 『ハンチバック』の中で、市川さんは釈華(しゃか)を通して健常者有意主義に悪態を吐きます。例えばこんなふうにです。

厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える思い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。

『ハンチバック』, pp. 26–27

 これは日本の読書バリアフリーの進展のなさを呪う市川さんの言葉です。その進展のなさへの呪いは、次の言葉にも表れています。

小説も学術書も、障害者の読書が想定されていない(=電子化されていない)ものが多く存在すること自体に大きな問題があると思っています。重度障害者が本を読んだり学者になったりするとは思わないのかもしれません。

芥川賞候補作「ハンチバック」作家・市川沙央さん 重度障害の当事者として描く
2023年6月26日NHK首都圏ナビWEBリポート、ディレクター田中かな

 確かに日本では、読書バリアフリー化された書籍が極端に少ないのです。文芸作品もでしょうが、研究者が義務として読んでおくべき学術書は、電子化しても一般には売れないからだと思います。事実、ある全盲の研究者は、ボランティアに頼んで読みたい本を音読してもらっているとおっしゃったことがあります。文芸書や学術書が出版社の義務として「アクセシブルな情報システム」であるDAISY(Digital Accessible Information SYstem)版を同時に発売してくれれば、視覚障害者だけでなく発達障害者やその他多くの、きっと市川さんのような難病者も、読書環境が広がるように思います。しかし、市場主義の日本では、売れなければそんな商品には何の価値はありません。

 それにしてもです。障害者文化論を研究している荒井裕樹さんは言います。

福祉関係者には日常的。それが読者に目新しく写ったとしたら、「小説の世界」と「障害者の日常」が交わってこなかったということではないか。そのギャップに読者は驚き、はっとさせられた。

インタビューで語った『障害と文学』の著者・荒井裕樹さんの言葉
毎日新聞2023年9月3日付「文化の森」、稲垣衆史記者

 これで何となく、我われ障害者が、もう20年も前から主張し続けてきた「障害者に『健常者』と同等の市民権を」という言葉が、むなしく空回りし続ける理由がわかった気がします。「『小説の世界』と『障害者の日常』が交わってこなかった」と同じくらい、「学問の世界」と「障害者の日常」も交わってはいなかったのです。健常者有意主義(マチズモ)は恐ろしいほどはびこっています。

 これを書いていて、昔、わたしがある大学研究所の教員ポストに応募したときに掛けられた言葉を思い出しました。

障害者手帳を持っているあなたを雇えば、確かに障害者を雇用していると示しがつく。しかし、障害者だといって甘えてもらっては困る。健常者と同じように働いてもらわないと困る。

ある研究所関係者の言葉です。あまり正確には憶えていません。

 確かに障害者の生きる世界と「健常者」の生きる世界は分離しています。井沢釈華(しゃか)ちゃんの物語は生き残るのでしょうか。

 すぐには無理でも、いつかは生き残ると信じたい。


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