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愛を提唱し続けることに異論はあるかい

あの夜、おれは潰れた新宿ゴールデン街劇場前にいた。
履き慣れたスリッパサンダルで、森永ミルクキャラメルをくちゃくちゃさせながら。
「お前がのろいのが悪いんだ」
通りすがったジジイの吐き捨てるような独り言。
歳を取れば、喉元に迫り上がった言葉を押し込む筋力さえ失うのだろう。

強烈な自己表現の場は、突如としてやって来るわけではない。それなりの金と労力とファンシーな客の目が要る。
カッターナイフを忍ばせて生活するような憂鬱はひとまず横に置いて、己を取り巻く事象を再構築し、とにかく台詞を間違えないこと。カリスマの横取りに遭っても慌てないこと。出鼻を挫かれても気落ちしないこと。今夜の夢を忘れないこと。

“心理戦に打ち勝つ気概があるか”と問われれば“まあ、それなりに”。
花粉症で生活保護の人間がいないように(くまなく探せばいるかもしれない)、笑いに髪を毟られることがあってはならない(元々毟られている人は除く)。
ジャコウ猫の香水を振り撒いた妖艶なオカルトチック女が実は少女漫画の知識しかなかった、なんてジャカルタではよくある話。
ないものを、探さなければならない。
砂漠であの子が投げた乳歯を掘り当てるくらい草臥れる作業だとしても。

「おい、でぶちん。邪魔だ」
さっきのジジイが、今度はおれの目を見ながらはっきりそう告げた。どうも街を一周し終えて戻ってきたらしい。
「でぶも悪くないだろ? 二千円で気持ちよくするぜ」
「だ、だ、誰がそんな! 莫迦め!」
顔を真っ赤にして逃げていくジジイは恐らくひどい勘違いをしているんだろうが、おれのハードボイルドモードもそろそろ明け方とともにおさらばだ。

世に出回ってるものすべてが美しいはずがない。身悶えするほど痺れる瞬間は必ずと言っていいほど悪夢のあとだった。

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