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3mのパス交換


本日は、高校サッカー部の伝統のOB戦に顔を出してきました。
同級生や見知った先輩後輩はもう誰も参加しなくなったこともあって、ここ数年足が遠のいていましたが、仲良しの先輩が久しぶりに来ること、小学生の頃にサッカーを教えていた子が現役生にいることを理由に顔を出して、ひと試合プレーしてきました。

彼(Nくん)と会えたことが何より嬉しかったのですが、実は、Nくんはぼくの経営する塾生でもあるので、「会えたことが嬉しい」は、正しくない。

では、なぜ、今日そう思ったのか。その理由を3mのパス交換をしながら、あれこれ考えていました。


例えば、
「生徒ー先生」という関係ではなく、いちプレーヤーとして共にピッチに立てたから

あの頃からの成長が見られて嬉しいから

あの時の教えが生きていることを確認できたから

相変わらず慕ってくれたり尊敬してくれるから

当時の、また今の「教える/教わる」という立場ではなく対等な立場で再会できたから



どれも間違いではないが、深呼吸した息の全てが「あーー」に溶けていくような納得感とはほど遠いなと感じています。


その答えは、おそらく、

「自分(たち)が『いる』ことをNくんによって証明してもらったから」だと思います。


例えば、誰かが亡くなって哀しいのは、その人自体の不在をありありと感じるからというだけでなく、その人と「いた」自分(たち)を同時に失うからだと思います。

つまり、自分(たち)ー人格や在り方ーは、自分の中に存在しているというよりも、他者との関係性の中で初めて生起し、その他者と一緒に「いる」ものではないでしょうか。


このように考えると、「会えたことが嬉しい」は、Nくんと会えたことが嬉しいというだけでなく、Nくんと「いる」自分(たち)に会えたことが嬉しい、という意味も含みます。Nくんの中にある自分(たち)と出会い直し、確かに自分が「いる」ことを証明してもらえたから嬉しかったのだと思います。

人は、このように誰かの前で何者かになって、その人と「いる」ことをあらゆる基盤として生きているのではないでしょうか。


Nくんがぼくをそこに「いる」ようにさせてくれたように、ぼくと「いる」Nくん(たち)を大切にしたいと思います。

OB戦は、自分(たち)との出会い直しの場としても機能するのではないか、それが、伝統を伝統たらしめる重要な要素ではないかと考えました。



Nくんとの3mのパス交換のたびに、Nくんの中にある自分(たち)が心地よく音を立ててくれるのを感じました。

Nくんも、同じように思ってくれていたら、幸いです。

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