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絵本をシリーズで読むということ

shinkuさんのnoteを読んで、考えさせられた絵本を、息子と寄った図書館でたまたま見つけた。嘘ではなく、入ってまずこの「にじうお」と目が合った。体温測定器は、やや遅れて、「36.1度」を示した。いつもより少し高めだった。

要約すると、

「にじうお」は、きれいなウロコを持っていた。それを他の魚たちは欲しがったが、あげなかった。いつの間にかひとりぼっちになったにじうおは、最後の一枚になるまで一枚ずつあげた。すると、みんな仲良くなった。

何を主語にするかに依るだけでも、それこそ虹色の解釈が可能な絵本だが、ぼくは、このように解釈した。
きれいなウロコをみんなに分け与え、みんながきれいなウロコを持つことでそのコミュニティ全体がキラキラ輝き出す。一方で、それは画一化であり、時間の経過に従って物珍しくもなくなる。「きれい」ですらなくなる。そして、みんなが鱗を捨てた先に、元々あった個性に各自が気付き出す。このような時間軸をもって読んだ。

絵本には様々な解釈がある、というのはさて置き、このシリーズのその次の話?では、ウロコが依然として1枚だけだったことに、ぼくは安堵した。
作者を知りたかったら、その人の全集にあたることで、その人の人となりや思想がぼんやりと浮かんでくる。同じように、絵本もシリーズで読むからこそ見えてくる作者像や登場人物の輪郭があるはずだ。すると、虹色の解釈は、シリーズという線の中で読むほど不可能になる。

恥ずかしながら、シリーズものの絵本を全集にあたるように読んだことはなかった。
今日、1枚のきれいなウロコが、読書の大切な心構えを思い出させてくれた。

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