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忘れ物バス

また落としたようだ。
鞄に手を突っ込んでかき回す。ない。それらしき感触にぶつからない。

ちゃんと探そう。
 バス停の椅子に腰かけて、鞄の中身をひとつずつ取り出して確かめる。やはりどこかに忘れてきたようだ。バスに乗る時にバス代を払ったので、その時点では持っていたはずだ。十中八九、バスの席に置いてきたのだろう。今日はすっかり眠りこんでしまっていた。目が覚めた時にはもうバスはバス停に着いており、慌てて降りたのだった。あの時、一瞬でもふりかえっておけばよかったか。まあよい。そんなに大した金額が入っていたわけでもない。
 
最終バスも行ってしまったし、今から探し回るのは億劫だ。家に帰ろう。

「あっ。」
 数歩歩きだしてから気づいた。つい声に出てしまった。家の鍵はサイフの中だった。
 困った。家に待つ人がいるわけでもない。大家さんに鍵を借りるにも、もう夜が遅すぎる。
 はあ。しかたない。面倒くさいが、探してみよう。バス停にバス会社の電話番号が書かれているのが目に入る。電話をしてみるか。携帯電話を取ろうと鞄をまさぐって気づく。――ない。
 今度は忘れた場所の見当もつかない。会社に置いてきたか、取引先に忘れたか、あるいはトイレに落としたということもあり得る。財布も携帯電話も失くしてしまった。

「おまえは詰めが甘いな。」
 職場で言われた言葉を思い出す。
 実際私は詰めが甘いらしい。大事なところで大事なことをうっかり忘れてしまう。財布を失くしたのもこれが初めてのことではない。
 うだつがあがらないのもそのせいだろう。
 この年にもなって、大事な仕事を任されることもなく、ただ日々どうにかこうにか暮らしている。仕事だけではない。こんな私だから、嫁の来手もないのかもしれない。
 この人と思う人がいなかったわけではない。いや、確かに結婚しようと思っていた。しかし、やっぱり私の詰めが甘かったのだろう。気づいたら失くなっている財布のように、気づいたら彼女は私の元を去っていた。渡し損ねた婚約指輪だけが今も手元に残っている。
 しばし、昔の記憶を回想しながら、私は座りつくしていた。

 視界を照らす光があった。
 バスがライトをつけて走っているようだ。
 最終バスはもう行ったはずだが・・・とぼんやり眺めていると、バスはまっすぐこちらに近づいてきた。我に返ったとき、バスは私の目の前に停車していた。

 プシュー 

 ドアが開く音がした。
 もしかして同じバス会社のバスであれば忘れ物の相談ができるかもしれない。ようやくそのことに気づいて、私はバスに乗り込んだ。

「運転手さん、あの・・・」
 私が言葉を発しきる前に、運転手は口を開いた。

「こちらは忘れ物バスでございます。忘れ物を見つけてはこうして持ち主の方のところへお届けしております。」

 そんなサービスがあったとは知らなかった。最近のバス会社はここまで進んでいたのか。

「私、財布をバスに忘れたと思うんです・・・」

 運転手は静かな声で、どうぞお乗りくださいと言った。促されるままバスに乗り込み、先ほど座っていた席のあたりまで進む。かがみこむと、そこにあった。財布が落ちていた。

 よかった。ほっとして一息つくと、隣の席に携帯電話が置いてあることに気づいた。もしや、と思って手に取ってみると、やはり自分の携帯電話であった。あれ。会社か取引先と思っていたが、携帯電話もここに忘れていたのか。少し不思議な気もしたが、何はともあれ良かった。席を立ちあがって礼を言おうとしたとき、運転手は「後ろの席もご確認ください」と言った。もうすべて見つかったからいいですよ、と言いたかったが、シャイな私は素直に従い、ひとつ後ろの席を見るために振り返った。
 そこにも財布が置いてあった。
 自分みたいなそそっかしい人が他にもいたんだな。でもこれを届けなくてはいけなくなったら面倒だなと思いながら、それを手にとった。
感触に覚えがあった。ずいぶん昔に私が失くした財布だった。
まさか、と思って中身を開ければ、間違いなく当時使っていた私の財布である。
なんでここに?これはいったいどういうことだろう。
 頭を整理できないままでいると、プシューっとまた音がして、バスのドアが閉まった。
 バスが発進する反動に押されて、私はまた席に座りこんだ。
 運転手さん、バスを止めてくれませんか。そう声を出すと、やはり静かな声で、

「忘れ物を、落とし主に届けるまでは降ろすわけには参りません。」と言った。

 なんだろう。もう忘れ物は見つかったのだが、全くわけがわからないな。
 しかし、不思議とバスに揺られるのが心地よい。家に帰っても、むなしいものだし、このままここで眠ってしまいたい気もする。しばらく文句を言うこともなく、ぼんやりと座っていた。ふと、反対側の席に目をやると、そこにはないはずのものがあった。部屋の引き出しの奥にしまったままの小さな箱だ。

「次の目的地に参ります。」運転手の声が聞こえた。ようやく私はこのバスが何を運んでいるのかがわかった。

 私もまた、誰かの忘れ物だったのだな。

 私は席に座って目をつぶり、このバスと私が向かうであろう次の行き先を夢想するのだった。


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