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「メシア無謬主義」は日本統一教会独特の文化

天心苑と重生の時代というサイトについて、はじまりの啓示から間違っているという記事を書きました(「真の父母は一体である」という啓示の真偽)。
サイト運営者は善意で記事を書いているのでしょうから、膨大な内容をまとめた努力には敬意を表します。
その一方で、根底の価値観に「真の父母無謬主義(むびゅう:神のように間違えないこと)」があることに気がつきました。
「無謬主義」とは何か、過去記事から引用します。

私も含めて多くの食口は、文鮮明無謬主義に囚われてきました。
以下の言説はすべて、メシアを神御自身と捉える誤った理解から生まれるものです。
・お父様は直接主管圏におられるから、過去も現在も未来も全てお見通しである。
・そのようなお父様が下される指示は、神から来たものだから絶対に間違いない。高額献金で日本食口が苦しんでいるように見えるのは、お父様の深い愛の心情を理解していないから。大勢の2世が教会を去るのは、そのように教えない親が悪い。
・真の子女様に問題が起きるのは、お父様の責任ではない。全ては祝福家庭の不信仰が招く蕩減である。
・私たちは全知全能のお父様に絶対服従したのだから、(その結果どれだけ現実が悲惨であっても)天国に入れてもらうことが約束されている。
このような言説は、韓鶴子無謬主義に置き換えてもそのまま当てはまります。
・お母様はお父様と最終一体で直接主管圏におられるから、過去も現在も未来も全てお見通しである。
・そのようなお母様が下される指示は、神から来たものだから絶対に間違いない。高額献金で日本食口が苦しんでいるように見えるのは、お母様の深い愛の心情を理解していないから。2世が反対活動をするのは、そのように教えない親が悪い。
・真の子女様に問題が起きるのは、お母様の責任ではない。実の子でありながらお母様の愛を理解せず批判する、子女様が悪い。
・私たちは全知全能のお母様に絶対服従したのだから、(日本社会からどれだけバッシングされるとしても)天国に入れてもらうことが約束されている。

創造原理とキリスト論を合わせると、「メシア=神のように全知で間違えない方」という理解が間違っていることは明白です。

食口がキリスト論を学び直すべき理由

このサイト運営者が、韓鶴子総裁のことを「神と一体の真の母」として崇敬したい気持ちは理解します。
ところが多くの日本食口は、人間が神と一体とはどういうことなのか正確に説明できませんでした。
再度過去記事からの引用です。

私自身、銃撃事件から数ヶ月が経過してようやく、文鮮明師のことを「間違え得る人間」として受け止めることができました。
そして人間が「間違え得る」とは、自由を賦与された恩恵の裏返しでもあり、素晴らしい特権なのだとも
神様の操り人形のように全知全能であれば、その人の裁量や自由はないに等しいからです
仮に「完成した人間」が何か失敗したとして、神様が「私と一つになっているはずのお前がなぜ間違える?私がそうなることを予見していたのだから、お前も事前に回避できて当然だろう?」と怒ることはないでしょう。
成熟した親子関係とは、子供の自立を尊重してあれこれ口出しはしないものだからです。

食口がキリスト論を学び直すべき理由

韓鶴子総裁を「間違え得る人間」と捉えることは、不信仰でもなければ神様への反逆でもありません。
ところが天心苑と重生の時代の運営者もまた(他の日本食口同様)、「真の母とは絶対間違えない方」というドグマに囚われているようです。

お母様がお父様を悪く言われるのは重要な意味を含んでいると考えるべきです。さらに言えば、お父様はお母様に、ある目的のためにお父様を徹底的に悪者にしなさいと言われているのです。お母様は、お父様から指示されたその役目に徹しておられるのです。どんな役者以上に見事です。かなりの食口がその言葉を信じたのですから主演女優賞をもらえるほどに迫真に迫っていたのです。しかし、信仰生活を通して神様の愛の本質にふれ、真の父母様の愛の深さを知っている一部の人は、いくらお母様がお父様を徹底して悪く言われてもそれが本音ではないと分かるのです。そしてお母様の本質を知っている人だけがそれに気付けたのです。

神様の恨を全身で受け止められたお母様

文鮮明師聖和後の韓鶴子総裁の言動が、真の家庭と統一運動の分裂を招いたことは明白です。
ところが「真の母無謬主義」に拠れば、それは文鮮明師から「予め指示された役目」であり、「食口が騙されることは想定内」であり、真の父母様の愛の深さを知っている「特別な人間」だけは、韓鶴子総裁の真意を理解できるというのです。

無謬主義のもう一つの問題として、韓鶴子総裁自らの責任分担を無視するのみならず、周囲の人間の責任分担までも奪ってしまうことが挙げられます。

文鮮明師が聖和して11年、私は変遷する教団を眺めながら「猫メシア崇拝」という仮説を立てました。
食口にとって「実証性」のような中身は重要ではなく、韓鶴子総裁という「宗教権威」のみが歓迎されるのなら、韓鶴子総裁の後継者として「飼い猫」を任命されたらどうなるのか?
「お母様の愛された『猫様』に侍りましょう!」と、食口は無条件に敬拝するのではないか・・・

救いは清平ではなく家庭にある:後編

人間を間違えない神としてしまうことは、周囲の人間に選択肢を与えません。
なぜならその方の行動は全知全能故に「100%正しい」のであり、もし何か問題が生じるとしたら、「(愛のない)周囲の人間が悪い」ことになってしまうからです。

思い返せば日本統一運動は、このような無謬主義によって食口の行動を強制し、自由と責任分担を奪い、メシアの人間的不足を責任転嫁してきた歴史だと言えるのかもしれません。
かつてアメリカの食口は、不貞を働いた仁進さんの公職復帰を民意で阻止しました。他ならぬ韓鶴子総裁が、公職復帰を指示されたにも関わらず、です。
しかしメシアだろうが何だろうが、間違ったことは間違ってると叫ぶ、人間として当たり前の行動ではないでしょうか。
ところが日本食口に限っては、「おかしいのでは?」と口にしただけで、「メシアの深い愛の意図を悟れない親不孝者」という烙印が押されてしまうのです。

韓鶴子総裁のカジノ収支を週刊誌が暴露した時の反応も、同様でした。
・そもそも事実無根であり、フェイクニュースだと退ける反応→ であれば名誉毀損で訴えれば良いのに、そうしていない。
・ラスベガスの娼婦を対象にしたチャリティースロット大会だと擁護する反応→ ギャンブルで勝った収益金を寄付するという意味か。収支は損失だったから寄付できなかったのでは。
・弟子たちにサタン世界を教育する目的だったという反応→ だとしても損失の桁が4つは違う。質素倹約は文鮮明師の教えではなかったのか。
これらの反応に共通するのが、「神様と一体のお母様たるお方が、間違った意図でカジノに散財するなどあってはならない、そう見えてしまうとすれば、不信仰で愛のないこちらの問題なのだ」という根深い無謬論です。

健全な人間の責任分担を取り戻せるのなら、もっと素直に行動して良いのです。
・略奪不倫の仁進さんが公職復帰だって?ふざけるな!
・幾らスロットマシンがお好きだとしても、限度というものがあるだろう!
このように怒りをもって反応したところで、神様から雷を落とされることはありません。
不快感を露わにするのは、無謬主義で同調圧力を掛けてくる日本食口だけなのですから。

かつて人権派ルポライターの米本和宏氏は、日本食口のことを「心がない」と揶揄しました。
(近く接すると善良な人ばかりだとしても)教団という村社会において、「無謬主義」に支配される構造を読み取ったからかもしれません。
それは彼が信仰を持たないから、そう見えるのではありません。
人間の自由と責任分担という普遍的価値を蹂躙する、日本食口の間違った文化に起因していたからです。


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