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湖畔から見える風景

さざ波立つ千々の松原

「彦根八景」の一つとして地元で愛される松原。かつて、松原の湖畔には、三里に渡って松林が続いていました。松原からは琵琶湖に浮かぶ多景島や竹生島を見渡すことができ、琵琶湖国定公園となっている景勝地です。

松原のちょうど彦根港から道路を挟んで正面の位置に、建物の壁一面の大きなガラス窓がパっと目を惹く、素敵なお店を見つけました。

湖畔にある止まり木

彦根港から長浜に至る湖畔沿いの道は、ビワイチ(琵琶湖一周)のサイクリングルートになっています。「喫茶とパン 湖畔」は、ビワイチ沿いにあるお店です。
 
自転車で走っていると、お店は湖畔の風景に溶け込み、一瞬、周りの風景と共に流れて行くように感じますが、切り取られたスナップ写真のように、そこには周りとは違う風景がありました。

お店には、サイクリングの途中、鳥が羽根を休める「止まり木」のような大きな木製のテーブルがあります。いずれの席も琵琶湖が眺められる特等席です。

ここは、地元の常連客が日々の疲れを癒す空間であるだけでなく、誰もが、ほっとリラックスできる空間なのです。

                              (写真提供:喫茶とパン 湖畔)

兵庫県から彦根へ

「喫茶とパン 湖畔」の店主・土谷さんは、10年ほど前に、ご主人のお仕事の関係で、兵庫県から彦根に住まいを移されました。お祖母様が彦根出身ということ以外、まったく彦根と縁はなく、知り合いもいない中で、心細い彦根での生活がスタートしました。
 
土谷さんが生まれ育った町では、常連客として通いたくなるようなお店はほとんどなかったそうです。それが、なんと彦根には、彼女の感性にぴったりの素敵なお店が点在していたのです。

                             (写真提供:喫茶とパン 湖畔)

土谷さんのお気に入りのお店の一つに「kanaria」がありました。
「喫茶とパン 湖畔」と同じ場所で、数年前まで営業していたカフェ「kanaria」にすっかり魅せられ、土谷さんは、常連客としてお店に通うようになりました。

まるでカナリアの美しい歌声に導かれるように、いつしか土谷さんはお店を手伝うようになりました。そして、お店で彼女の手作りのパンを提供することになったのです。

さざ波が立つとき

「kanaria」の常連客の立場からスタッフの立場になったとき、また、パンを焼くことになったとき、土谷さんの心には「さざ波」が立ったに違いありません。
 
そして、土谷さんが「kanaria」でパンを提供するようになって4年経ったとき、店主の都合により、お店を閉めなければならなくなりました。

店主から「kanaria」を閉めると聞いたとき、土谷さんは、お店を愛してくれている地元の常連客のために、お店を引き継がなければ!と全身にグッと力が入りました。
 
土谷さんは、ご自身が常連客だったときから、そして、スタッフとして、お客さんと一緒に作り上げてきた「kanaria」の空間がとても好きでした。
 
この大切な空間を失いたくない。この場所でチャレンジしてみよう!と、土谷さんは決心したのです。

                              (写真提供:喫茶とパン 湖畔)

「さざ波」は心の動揺を表現する言葉です。人生において、心に「さざ波」が立つような出来事が起こることもあるでしょう。
 
しかし、それと同時に、松原の「さざ波」は、「彦根八景」として知られているように、琵琶湖湖畔の美しい風景として、地元で愛されているのです。
 
土谷さんの心に立った「さざ波」は、松原の「さざ波」のように、彼女にとって、とても美しい湖畔の風景に見えたのではないでしょうか。

ちょうど私が、「喫茶とパン 湖畔」に伺った日は、空は雲一つない快晴でした。しかし、松原では強風が吹き荒れ、竹生島行きの船は欠航になっていました。
 
「さざ波」よりも大きな波が立ち、琵琶湖は荒れていたので、ビワイチには自動車も自転車も走っておらず、もちろん、歩いている人は誰もいませんでした。
 
自転車を停めて、大きな木製の扉を開けてお店の中に入ると、さっきまでの悪天候はなんだったのか、まるで、異次元に迷い込んだようでした。そこには、外とはまったく違う、とても静かな時間が流れていました。

                              (写真提供:喫茶とパン 湖畔)

湖畔の風景に魅せられて

建物の壁面をバッサリと潔く切り取って作られた、大きなガラス窓越しに見えるのは、さっきまでの強風をまったく感じさせない湖畔ののどかな風景でした。
 
渦中にいると、強風に心が折れそうになることがあるかもしれません。しかし、お店の中からガラス窓越しに眺めると、それは一つの美しい風景に過ぎません。

私がお店に伺ったとき、「kanaria」の時代から10年以上、ここに通われている常連客のお二人が、仲良く窓の外の風景を眺めながら、お茶タイムを楽しまれていました。
 
実は、お店で提供されているパンやスイーツは、すべて土谷さんが一人で作っています。そのため、月に数日、限られた日だけ、お店を開けているそうです。つまり、お店が開いている日数より、閉まっている日数の方が、圧倒的に多いのです。
 
それなのに、私は、常連客と土谷さんとの間に、隔たりを感じることはなく、むしろ、強い絆のようなものを感じました。
 
そして、わかったのです。常連客は湖畔の風景を気に入って、パンやスイーツを気に入っているから、ここに通うだけでなく、土谷さんがいるから通っているのだと。

お店を開けていない日も、メニューを考えたり、材料の調達をしたり、土谷さんの心は、常にお店と、お客さんと共にあり、お客さんと繋がっています。
 
その心の絆があるから、毎日お店を開けていなくても、「喫茶とパン 湖畔」は、ずっとそこに存在し、地元で愛され続けているのではないでしょうか。

珈琲豆は土谷さんお気に入りの兵庫県六甲「六珈」のもの

母なる琵琶湖のように

兵庫県から彦根に移って来られた土谷さんは、今では「喫茶とパン 湖畔」の店主として、多くの人の胃袋を満たし、心を満たす場所を提供しています。そして、彼女の人柄は、多くの地元の常連客を魅了しています。

そんな土谷さんですが、これまで、パン屋さんで修業した経験があるわけではありません。実は、彼女のパンを育てたのは、地元の常連客の率直なアドバイスと応援でした。
 
「酸っぱいパンは苦手だなぁ」と言われたら、パンの酸味を控えたり、地元の常連客に寄り添いながら、土谷さんは、試行錯誤でパンを進化させてきました。

琵琶湖は「マザーレイク」と呼ばれ、滋賀県だけでなく、京都府、大阪府、兵庫県に水を供給し、豊かな生態系を育んでいます。
 
琵琶湖が周辺に暮らす多くの人を育むように、地元の常連客が土谷さんとお店を育み、そして、土谷さんは、地元のイベントにも積極的に出店し、食を通して、多くの人を育んでいるのです。
 
また、土谷さんは、卵やフルーツなど、地元の食材を用い、地産地消にも拘っています。県外から彦根に来た土谷さんを受け入れ、育んでくれた地元への還元。一つ一つは小さな循環かもしれませんが、それが「さざ波」となり、そして、大きなうねりに繋がっていくのかもしれません。

今回、私は午後の少し遅い時間にお店に伺ったので、残念ながら、お店の看板商品である自家製酵母パンを頂くことはできませんでした。次の機会に、土谷さんが魅せられた湖畔の風景を眺めながら、ここで熟成したパンをじっくり味わいたいと思います。

                              (写真提供:喫茶とパン 湖畔)

喫茶とパン 湖畔
滋賀県彦根市松原2丁目13-12
Instagram https://www.instagram.com/kohan_tsuchiya/
 
営業日、営業時間はInstagramでご確認ください
 
 
(写真・文 若林三都子)