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#72_学校に遊ばれない/学校で遊ぶ

夏休みも終わりを迎えつつあるなか、「もうこれでやめよう」「もうそろそろ読んでる場合じゃないよ」「授業の準備もできていないし、会議の資料もできてないし、読んでる時間なんてないよ」というささやきを見事にスルーしながら、手を伸ばしたのが『ひとりあそびの教科書』です。

書店に立ち寄ったとき、ふと、手を伸ばしました。そして、パラパラとページをめくっていくなかで、とっても心に残るキーワードが目に飛び込んできました。

「ゲームにあそばれず、ゲームであそぶ」

そのときは時間とお金の余裕がなく、本を閉じて、書棚に戻して、書店をあとにしました。しかし、ずっと「ゲームにあそばれず、ゲームであそぶ」というキーワードが頭から離れませんでした。Amazonでポチっとしてもよかったのですが、「今月もけっこう買っちゃったなあ……」という罪悪感のかけらの先っちょが妙にとんがっているように感じられて、どうしても最後の一歩……いや、最後のワンクリックができずにいました。で、別の本を探していたついでに、図書館の蔵書検索をすると、なんと、ヒット!出版されたばかりの本だったので、半ばあきらめていました。あきらめを感じているときの逆転現象ほど、心と体を勇気づけてくれるものはありません。図書館に行って、かりてきて、さっそく読みました。

「ゲームにあそばれず、ゲームであそぶ」

こんなふうに書いてありました。

ゲームを極めると、人はゲームをしなくなる。ゲームのおもしろさを最大限に引き出そうとどこまでも考えていくと、最終的にプレイヤーは最後は自分自身をゲームから排除してしまう。なぜならば、自分自身はコントロール可能で、コントロール可能なものはある程度は予測がついてしまうからだ。そして人間は予測がついてしまうものを退屈に感じてしまうのだ。(176)

宇野常寛(2023)『ひとりあそびの教科書』河出書房新社

たとえば、サッカーゲームをしていると、「こんなふうにプレイすれば簡単にゴールできる」という法則みたいなものがわかってきます。すると、「この選手にたくさんゴールさせて得点王にしよう」というところまでコントロール可能になっていきます。こうすると、スリルやドキドキは減退し、ただただノルマをこなすだけのような感覚が到来してきます。そして、「なんか、つまんねえな」と思い、次のソフトへと手を伸ばしていきます。

授業もそうだよなあと思いました。

「この先生の授業、こんな感じよね」「こんなふうにやってれば、何も言われないから楽よね」というふうに、子どもたちは授業の「攻略法」を手に入れていっているのではないでしょうか。私自身もそうでした。「この授業は発表回数で評価をするという(わけのわからない)方針があるから、とりあえず、何回か発表しておこうか」という攻略法を実行するわけです。

何事もなく授業を終えるための攻略法を手にした子どもたちからすれば、その授業はもはや「コントロール可能」になっています。だから、おもしろくなくなるし、ワクワクやドキドキは減退し、ただただノルマをこなすだけのような感覚が到来してきます。

こんなふうにも書いてありました。

そう、ゲームの本当のおもしろさを引き出したければ、決められたとおりにプレイしてはいけない 君がいま、普通にゲームを「攻略」しているのだとしたら、君はプログラマーが組み立てた道を、指図どおりに歩いているだけに過ぎない。それはそれでおもしろいのかもしれないけれど、それでは「ゲーム」のおもしろさを半分も味わっていない。ハンバーガーのパンだけを食べているようなものだ。餃子の皮だけを食べているようなものだ。焼肉のタレだけを舐めているようなものだ。ゲームの本当のおもしろさは「攻略」にはない。プログラムされたゲームを分析して、別のあそびかたを発見すること。誰かがつくったゲームを、自分のルールをつくって別のゲームに書き換えてしまうこと。そうすることで、ゲームは本当のおもしろさを発揮する。誰かがプログラムしたゲームを攻略するとき、目の前にあるゲームはひとつだけだ。しかし自分でそのゲームの別の楽しみ方を発見しようと思ったとき、ゲームの楽しみ方は無限大になる。誰かがプログラムしたゲームを攻略しているうちは、君はまだゲームに「あそばれて」いる。本当にゲームが好きなら、ゲームにあそばれるのではなくゲーム「で」あそぶべきだ。そのほうが何十倍も、何百倍もおもしろいし、何より「終わり」がない。(176‐177)

宇野常寛(2023)『ひとりあそびの教科書』河出書房新社

この夏休み、久しぶりにゲームにハマりました。それも「キャプテン翼」に!ノスタルジーに浸りながら熱中しました。最初は息子がやりたくて買ったのですが……。

とりあえず、用意されているストーリーはクリアしました。おもしろかったのは、そのあとです。

このゲームには「選手を育成するプログラム」があります。自分の好きな名前で、好きな顔で、好きなプレースタイルで、好きな「必殺技」を覚えさせていくというプログラムです。

これが、ものすごく、おもしろかったのです。

息子と一緒になって「ブルーロックのチームをつくるぜぇ」と、一人一人、愛情を注ぎながら選手を育てていきました。

私と息子は「キャプテン翼」のゲームプログラムを「ブルーロックの登場人物育成プログラム」へと書き換え、この夏、楽しみまくりました。

いくらでも、やれてしまいます。

授業もそうなるとおもしろいだろうなあと思いました。

授業のプログラムは、先生がつくります。でも、先生がつくったプログラム通りにプレイするかどうかは、先生にはコントロールできません。子どもたちそれぞれが「自分でつくったプログラム」を持つようになると、子どもたちは「授業で学ばされる存在」から「授業で遊ぶ存在」へと変貌していくのかもしれません。もし子どもたちが「授業で遊ぶプログラム」をつくることができたら、先生の意図とはまったく別のところで授業を楽しみ、授業で遊ぶことができるようになるかもしれません。もはや、先生は、それをコントロールすることなど、できるはずもありません。

想像すると、ちょっと、こわいです。

でも、想像すると、すっごく、楽しそうです。

学校に遊ばれない子どもになろう。
学校で遊ぶ子どもになろう。

夏休み明けの、子どもたちへのメッセージが、またひとつ、できました。

まあ、だからといって、夏休み明けが楽しみになってきたかと言えば、そうではありませんが……(笑)

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