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立ち止まるな、思考。

会社の偉い人が退職する。それで、その人の挨拶を聞く時間があったんだけど、やけに心に残った言葉があったので、ここに残しておこうと思う。

『自分を俯瞰してみること。自分は何が好きで、どうなりたくて、なるために何をすればいいのか。解像度高く、自分のことを考えること。

受け身でいると、絶え間なく変化する周りの環境や会社のやり方にどんどん影響を受けて、気が付くと全く違うほうに曲がっていることもある。

考えて、自分はこうなりたいんだ。これがしたいんだということをやり続けてほしい。』

考えるのをやめて流されるな。考え続けろ。ということ。

受け身でいると簡単に周りの影響を受けてしまう、というのは、特にストンと私の中に落ちて、ああ、本当にそうだなと心の中で深くうなずいた。

なるようになるさと身をゆだねることや、他人に対して許せる範囲が広くななること、強いこだわりが無くなること、私は何となく懐の広い大人になったような気がして、むしろかっこよく感じていた。

でもそれは、単に思考を手放しているだけかもしれない。考えるのはとてもエネルギーを使うから。大人になったな、って言葉で逃げていただけなのかもしれない。

受け身でいることは楽だ。会社だと特に。これやってくださいと言われればやる。やらなかったら文句言われるけど、やればそれで終わり。誰か意見ないですか?と会議で言われても、周りがシーンとしていれば同じようにシーンとしておけばいい。決まったことをやるねって、それだけ。

考えることをやめれば、考えている人にいいように使われる。自分では、許容範囲が広く、調和を大切にしている優しい人間だと思っていても、本当はただの都合のいい人間。気づかないうちに遠く遠くに流されて、こんなはずじゃなかったと思うはずだ。

そう、これは最近の私だ。

最前線で戦い続けた前職と比べて、今は第二部隊、いや後方支援あたりにいるんだけど、人の顔色をずいぶん窺うようになったなと思う。私はサポートだから、と指示に従うことを昔よりかなり重視している。それは必ずしも悪いことじゃないんだろうけど、「私はこうしたほうがいいと思います」と自分の意見を提案したことが最近あったかな。
昔はもっとカジュアルなチャットを送ってパパっと確認してたのに、今はなんとなく周りの雰囲気を読んでお堅い文章を打っている。その分時間もかかるのに。チャットの意味ないなと思うけど、自分から砕けた文章を送る勇気はない。

そういえば昔も、「部長」がくると聞けば「部長だ!偉い人だ!」と役職だけで簡単にビビッてみたり、自分的には腑に落ちなくても、偉い人が言っているんだからその通りなんだろうな、とすぐ影響されていた。強いものに巻かれすぎだ。あまり昔から変わってないのかもしれない。

私はこうなりたいんだ、この会社で、この環境でこんなことがしてみたいんだというのはなんだかおこがましい気がして、誰にも嫌われたくないみたいな八方美人な自分も相まって目立たず騒がず、謙遜してきた。

でもこれも全部、思考することを手放していただけなんだろうな。

話を聞いた後、私の意識がちょっと変わったのが分かった。(これがまさに影響を受けた簡単な私であることはわかってるけど)

夕方、私宛に業務依頼の連絡がきたとき。いつもは当たり障りなく「承知しました。」と返していたんだけど、今日は「もちろんです!」と返信した。”私”は、テキストコミュニケーションは気持ちよくあるべき、と思うから。

いつもは「~してもよいですか?」と許可取りするところを「〇〇したいので対応します」とやる前提で連絡した。”私”は、そうしたほうが効率良いと思ったから。

私はどうしたいのか、何がやりたくてどんな人になりたいのか。会社だけじゃなくて人生もそう。私は自分の人生のことばっかり考えてるけど、それは「こんな将来になれるといいな」で、「こうなりたいんだ」ではなかったように思う。自分はどうしたいかって一本しっかり軸をもって、ぐるぐる変化する環境を進む。環境が運んできた選択肢に乗っかるんじゃなくて、”私”が選択する。その意識が大事なんだろうな。

この時代に、「こうしたい」という意思を持つことはかっこよく思える。頑張ってる人に横やりを入れていい気になったり、斜めに見てバカにすることがクールかのように振る舞う人もいるけれど、まっすぐ進むのは、かっこいいんだ。

明日は今日よりもう少し、強い私になれますように。あ、違う違う。強い私に「なる」んだ。

考えることを、やめるな。


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