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肩の力を抜いて生きるのは難しいなぁ。

繕わずにありのままの自分をさらけ出せる日はくるんだろうか。いや、ありのままの自分というか、頑張りすぎていない自分?バリアを緩めた自分?

30年以上生きているというのに、なんだかいつも巾着のひもをギュッと締めるみたいな正し方をしている気がする。余裕のある人っていいなと思うから、自分もそういう空気をまとうイメージはしているんだけど、そうやって「余裕っぽい自分」に切り替えようとしていることこそ、”正そうとしている”感じ。

ってことで、今日は「余裕っぽい人」って具体的になんだろうと考える日です。

ちょっと、周りの人を思い浮かべながら、書き出してみる。

・ヨガしてる人 ←これは安直すぎるか
・海外に住んでた(る)人
・手に職がある人(クリエーターとか。フリーランスの人)
・多趣味な人 好きなものがいっぱい みたいなひと
・めちゃくちゃ仲いい親友がいる人
・家に植物ある人

・・・こんな感じかなぁ。さすがにヨガと植物はイメージから直脳すぎるか。

でも書いてて思ったのは、大切なつながりや世界が複数ある人ってことなのかなーということ。ハウルの動く城みたいに、4色の円盤があって、それぞれで全く世界が変わるような。逃げ込めるような場所が何個かあるってことなのかな。

私はというと、特に趣味もなく、休みの日はプラプラして、平日は仕事。関わる相手はほとんどが職場の人で、友達も学生時代からの付き合いがほとんど。しかもそんなに多くもなく。という具合なので、それぞれの境界線がぼんやりしている。し、じゃあこの中でいわゆる”世界”として分類していいものがあるかと考えると、職場しかない。所属してる感が職場でしか感じられないから、周囲の声に一喜一憂して、気になるし、振り回されるのかも。

職場の世界でうまくいかなくても、私には「ヨガ」があるし、「海外生活の思い出とつながり」があるし、別に大丈夫ですよ。となるのだろうな。

依存先は分散するべし、というオタクの教えを聞いたことがあるけど、まさにそうで。持ち物を増やすことって結構大事なんだと思う。執着も減るしね。

はぁ。こう書いてみると、あまりに自分の持ち物が少なくてガッカリしてしまう。でも多分これは挑戦した数に比例するものなんだろうな。安パイで生きているとどんどん世界が狭くなっていくような気になる。安全な人としか関わらないし、安全な場所にしかいかないし。

ああ、そう考えると、余裕がある人って、「許せる範囲が広い」んだ。例えばわたしが今も田舎の街で生きていたとして、いきなり東京からひょいと自分のコミュニティに入ってきた人がいたとする。その時、地元しか知らない私はきっと「東京の人だ、すごい」「田舎者って思われないかな」って変に構えるだろうけど、東京に住んでいた場合は「私も住んでたよ~」ともっとラフに話しかけることができるだろう。

肩の力を抜くには、抜くだけの頑張りが必要。ということか。

つまり私が今もまだ巾着のひもをギュッとしているということは、まだ余裕を生み出せる状態ではないということ。振り出しです。

はぁ、もうでも仕方ないね。そういうことなら。
頑張りますよ人生、まだ肩の力を抜くときじゃないっぽいので。

必死になるかぁ。30代。新しいことを始めよう。エネルギーいっぱい使って。


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