愛猫が教えてくれたこと
ここ1週間ほどは、我が家の猫が行方不明になったことをnoteに呟く日々が続いておりました。
ご心配してくださったり、よかったね!というコメントをくださった方、コメントはなくても、心のなかで何かしら想ってくださった方…ありがとうございました。
そんななか、先日、私は↓のような呟きを投稿しました。
愛猫が行方不明になったことをキッカケに、私は「我が家の猫を見ませんでしたか?!」と、いろんな人に声をかけることになりました。
普通に暮らしていたら自分とは全く接点がない人、あいさつしたことはあっても会話はしたことがない人、一言で言えば【見ず知らずの人】とも、お話をすることとなったのです。
猫のことがなかったら、いつもの私だったら…??
いろんなフィルター・色眼鏡…エゴの判断を通して、その人のことを見て「わぁ、この人、ちょっと恐そうかも??」「なんだか感じが…悪そう??」と思ってしまうような人。
そういう人にも、もう、なりふり構ってられない!という感じで、もう文字通り、我(=エゴ)を忘れて、声をかけました。
すると、「恐そう、感じが悪そうかも…」と思えた人がすっごく良い人だったり、とにかくもう、色んな方が、私と一緒になって心配してくれたり、応援してくれたり…愛を受け取ることができたんです。
「自分のアタマでアレコレ考えるよりも、もっと声を出しさえすれば、色んな人が助けようとしてくれるよ」
「もっと、まわりの人を信頼してごらんよ」
そんなことを教えようとしてくれて、猫はいなくなったのかなぁ?と感じました。
***
このことに私が気づけたのは、ある方から
「いかに自分が、【肉体】【個別のルールや物質】などにラベリングをして物事を見ていたかが分かった」ということを教えてくださったからなのですが、
「私の」判断/評価/比較というものが、いかにあやふや、デタラメであるかを、改めて痛感した出来事でもありました。
その方は、海外旅行先でこのことを感じられたそうなのですが、そういえば、私も海外にいるときの方が、日本にいるときよりも人とオープンに接することができていたなぁ…と思い出しました。
海外にいると「日本にいるときの悩みとか、気にしていることがどうでもいいや〜」って感じられていたからかな?
(しかし、海外にいても、駐在妻=日本人どうしのグループにいるときは苦しかった…別にイジメられてたわけでもなくて、みんなすごく良い人たちだったのに)
ラベリング/判断/評価/比較をしてはいけませんよ、そんなことするのは人としてダメです!ということではありません。
(こういう尤もらしいことをいうのも、エゴの声)
というより、いままで自分が固執してきたモノを手放すと、
そこに残るのは「愛」しかない、「愛」だけがリアルなんだ…ということに気がつきます。
でも…!!エゴは、それを嫌がります。
めちゃくちゃ、抵抗してきます。
判断/評価/比較は、エゴさんの大切なお仕事なので「手放しちゃダメー!」って囁いてきます🐍
エゴの抵抗をどうにかしようとすると、エゴはもっと存在感を増すので…
「あぁ、エゴなんだなぁ」って、認める、見つめるということしか、私たちにできることはありません。
そして「個としての自分」よりも、もっともっともーっと!大きな存在、大いなる存在、ハイヤーセルフ、神さま…に、預けます。委ねます。お祈りします🙏
「神さま、もう、このエゴの言うことに私は耳を傾けたくありません」
「もう、このエゴを手放したいです、手放せるように助けてください」
これを、毎日コツコツ、続けます。
心のザワザワが、エゴが、静かになるまで。
すると、あるとき、思いもよらないところから、「愛」を受け取る、または、「愛」を与えるといった体験が訪れます。
それは、我が家の愛猫が、いきなり逃げ出してしまって帰ってこないよ😭という出来事のように、最初は痛みを伴うかも…しれません。
でも、どんな出来事にも、その奥には、そこから受け取れる「愛」が、必ずあります。
(愛猫のことがキッカケで、他にも色んな気づきがあったのですが、それはまた別の記事で…💦相変わらず、長い割には、なんだか上手くまとめられないなぁ~)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?