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『デザインのまなざし』のこぼれ話 vol.1

マガジンハウスが運営している、福祉をたずねるクリエイティブマガジン「こここ」で、グッドデザイン賞の連載『デザインのまなざし』がスタートしました。

この連載では、「福祉」と「デザイン」の交わるところには、どんなまなざしや手つきがあるのか? デザインが社会にできることとはどんなことなのか?という問いをテーマに、 これからの社会を豊かにするヒントを、デザイナーの実践から学んでいきます。

1回目に登場してもらったのは、2018年度グッドデザイン大賞を受賞した「おてらおやつクラブ」を運営している認定NPO法人おてらおやつクラブ代表理事の松島靖朗(せいろう)さんです。

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松島靖朗さん

現役の僧侶である松島さんはなぜ、経済的に困難な状況にある家庭を支援する「おてらおやつクラブ」を始めたのか、またその仕組みにはどんな工夫があり、その後どのように広がっているのか、などなど、福祉におけるデザインのあり方について伺いました。

詳しくは「こここ」の記事をご覧いただくとして、このnoteでは、本編には載せきれなかった、「おてらおやつクラブ」誕生の前日譚である、松島さんが僧侶になるまでのライフストーリーをスピンオフ版として掲載します。

お坊さんになりたくないという思いから高校を中退し、実家の奈良を後にした松島さんが、ネットバブル華やかな時代の東京で大手IT企業に職を得たのにもかかわらずベンチャー企業へ転職し、さらに最終的に寺に戻ろうと決意するまでには何があったのか、その揺れ動き続けた想いと、変わらないまっすぐな行動の両方を、言葉にしてもらいました。

撮影:進士三紗 / 写真提供:マガジンハウス〈こここ〉編集部

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お寺の子どもに生まれて

今日は松島さんの生い立ちからじっくりとお話をお伺いしたいと思います。いま住職を務められているこのお寺(安養寺)は、何代続いているのですか。

松島:私で32代目の住職になります。江戸初期の1633年に創建した寺なので、あと12年で400年を迎えます。
もともと私の母方の祖父がここで住職をしていて、祖父の孫は5人いたのですが男は私だけでしたので、将来はお坊さんになってお寺を継ぐものとして育てられました。

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子どものころはどんな生活を送っていたのですか。

松島:特別な躾があったわけではありませんが、お寺の環境の中に投げ込まれたので、自然とお坊さんになるよう仕向けられた感じはしますね。
朝から祖父とお勤めをして、学校が休みの時は、檀家さんの家を一緒に回るのです。最初は楽しかったのですが、同級生の家を回ると、変な目で見られたり、学校で冷やかされます。そうしたことが子ども心の中に積み重なると、嫌だな、逃れたいなと思うようになりました。

また、お経の中身も当然わかっていなくて、ムニャムニャと唱えるだけなのに、お布施をいただくことがあって、騙しているような罪の意識をもってしまったのです。これ以上は無理だと思い、お勤めはやめました。

さらに、小学校時代に一つの事件がありました。鎌倉時代に活躍された仏師快慶作の仏像がこの寺にあることがわかり、重要文化財に指定されたことで、社会科の授業で同級生全員がうちに来ることになったのです。そこでも皆にからかわれて「なんで“普通”の家に生まれなかったんだ」と、生まれ育った環境を呪いました。今となってはありがたいことですが、当時は嫌でたまりませんでした。

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松島:中学時代もずっとモヤモヤした感情を持っていたのですが、祖父を傷つけたくない気持ちもあって、寺を継ぐことを拒絶はできませんでした。そして、勧められるままに大阪の高校を受験したのですが、入学してみるとまるで浄土宗のお坊さんになるための養成学校のようだということに気づき「このままでは完全に逃れられなくなる」と思って、数日で退学しました。溜まっていた感情が一気に出てしまったのかもしれません。

お話を伺っていると、寺や宗教が嫌なのではなく、「将来の道を勝手に決められること」への抵抗の方が大きかったのかもしれませんね。その後はどうされたのですか。

松島:退学後、翌年春までは軌道修正の時間を過ごしました。引き籠もっていた時期もありましたが、自分から勉強したいと思い立って受験のための塾に行かせてもらい、そこで恩師の長谷川先生に出会うことができました。先生は勉強だけでなく、学校に行く目的や生きることの意味を教えてくれて、世の中には多くの世界と可能性があることを知ったのです。

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「インターネットで世の中を変える」と決意した東京時代

その後あらためて別の高校に入学し、早稲田大学の商学部に進学したんですね。

松島:東京に行けば物理的にお寺から脱出できると思っていましたし、誰にも言いませんでしたが、奈良には戻らないつもりで上京しました。
入学したのは1996年で、ちょうど渋谷がビットバレーと呼ばれるようになるなどインターネットが盛り上がっていた時期で、私もその界隈に顔を出し、インターネットで事業を興すことばかりを考えていました。
授業はあまり出ず、ネットベンチャーでホームページ作成や、パソコン会社のユーザーサポートのコールセンターなどのバイトをやっていました。

学生時代は何らかの支援活動や、ボランティア活動はしていましたか。

松島:そんな意識もなかったですし、活動もしていませんでした。「社会のためより、お金を稼ぎたい!」と強く思う大学生だったので(笑)

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卒業後はなぜNTTデータに就職したのでしょうか。

松島:就職氷河期でしたが、片道切符で上京してきたこともあって、就職活動にはかなり本気で取り組みました。どこの面接でも「インターネットで世の中を変えます!」と言って、入社することになるNTTデータの他にも、大手商社やネットベンチャー企業などたくさんの内定をいただき、どこに入社するかすごく悩みました。
NTTデータならシステムを使って新しい仕組みをつくる仕事、大手商社であればアメリカから新しいインターネット事業を持ってくる仕事をしたいと思っていましたし、ネットベンチャー企業は、たしか新卒採用をはじめたばかりのタイミングで、インターネットで世の中を変えていこうと血気盛んな創業社長についていくことができた状況でした。

最終的にNTTデータを選んだ理由は、将来を考えると、大企業からベンチャーに転職はできても、逆は難しそうだと思ったからです。

結果的に、入社動機がそのまま叶い、新世代情報サービス事業本部という部署に配属されました。その後ネットベンチャーへ投資育成する部署に移り、その中で出会ったのが1999年創業で「@cosme」で有名になるアイスタイルという企業です。

そして、まさに大企業を辞めてベンチャーに転職したのですね。

松島:出向も選択肢にあったのですが、アイスタイルの同年代のメンバーと一緒に成長する場面に身を置きたいと考えました。仮に事業が失敗しても大企業に逃げられる立場でなく、退路を断って、当事者の一人としてこの会社に賭けてみたいと思ったのです。NTTデータの先輩からは引き止められましたが「もう大企業の時代ではないです!」と、言い切って出て行きました。
若気の至りでもありましたが、何より「消費者の口コミを集めて新しい価値に変えて流通させていく」という吉松社長のビジョンに共感し、「この人と一緒にこの時代を過ごしたい」と考えました。

ただ、いま振り返ると、焦っていたのかもしれません。ネット時代の急激な変化のスピードに乗り遅れないようにしたいという想いに加えて、家業を継がずに奈良を離れた負い目もあって、早く成果を出さなければいけないという気持ちでジリジリしていたのだと思います。

できるだけ「お寺から遠いところ」に行きたいという想いがあったのでしょうね。

松島:上京した時は、ごくごく普通に大学を出て、企業に就職し、結婚して、家を買って‥と思っていました。もともと“特殊”な環境が嫌で、“普通”の生き方をしたいと思って奈良を離れたわけですし、東京にいたら誰も自分がお寺の子であることを知らないので、とても心地が良かったです。
ですが、ある時から何か違うぞと、思うようになりました。社会に出て、いろいろなことを学んでいくうちに、自分が「すごいなぁ」と心の底から思える人は、“他人とは明らかに違うことをしているからすごい”のだということに気づき、“普通”を求めることに違和感を覚えるようになったのです。

人とは違うことをすることの大切さを知ることで、やっと、自分の生まれ育った「寺」という環境は“普通"ではないこと、そして「お坊さん」は、たとえ東京で大活躍している人がなりたくてもなれないものなのかも、という思いに至りました。そこで、住職を継ぐことを正面から考え始めたのです。

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松島:
奈良には帰らないつもりで上京しましたが、家族や村の檀家さんなど待っている人がたくさんいるのもわかっていましたし、どこかに意識はありました。いつも喉に小骨が引っ掛かって、チクチクして、とりたいけど、とれないような気分です。もしかするとこの決断は自分で手繰り寄せたのかもしれません。

そんな経緯があったのですね。松島さんの根本に「自分の人生は自分で決める」「一度決めたら振り返らずやり切る」という考えが強固にあるのがわかってきました。

松島:そうかもしれません。たしかに実家に戻ると決めたあとは悩みませんでした。修行のスケジュールを逆算して、その1年前に吉松社長へアイスタイルを辞めることを伝え、最後の1年は滅茶苦茶働きました。
東京生活を振り返ると、自分で困難な道を選んで、よくがんばったなと思います。結果として外の世界を知り、閉じた世界をどう開いていけばいいのかを思考することができました。今から考えると東京での生活も修行だったんだなと思っています。

社会のために、お寺ができること

奈良にはいつ戻ったのですか。

松島:2008年に14年ぶりに奈良に戻り、浄土宗僧侶の資格を得る修行に2年半かかり、2010年の暮れから僧侶としての生活が始まりました。最初の2、3年は修行時代から続けてやってきたことを、ひたすらやりきり、お寺はどういう場所であるべきかを、身を持って感じていきました。

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そうした中、1つ目の転機が突然きたのですよね。

松島:はい。修行道場を出た翌年、東日本大震災が起こりました。それがきっかけで「社会のためにお寺ができることは何か」をあらためて考えるようになったのです。

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ここから松島さんは、東日本大震災と大阪市のマンションの一室で起きた母子餓死事件をきっかけとして、「お寺の仕組みが、社会の課題解決に繋がる」ことに気づき、行動を始めていきます。この続きはぜひ「こここ」の連載『デザインのまなざし』をご覧ください。