見出し画像

ASDの「ありがとう」の温度

先日、以下のようなTweetをしたところ、さまざまなご意見をいただきました。ありがとうございます。

このTweetのツリーはとても参考&勉強になりました。たくさんの「なるほど」が詰まっていますので、発達障害関連で「当事者や周囲の方々の思考を少しでも知りたい」という方は、ぜひ参考にしてみてください。

そもそも私がこのTweetをした理由は、ASDの典型的な特性の一つであろう「感謝の欠如」の感覚がわからなかったからです。結果的にそう見えるだけなのか、それともそもそも実際に人に感謝することがないのか。

どうやらASD当事者にも感謝や恩の気持ちはあるようですが、相手の厚意や親切をうまくくみ取れなかったり、それを伝えるタイミングがわからなかったり、どのくらいの温度で伝えればいいのかわからない、そもそも何かしてもらったことに気付いていない──など、さまざまなご意見がありました。

この中で私がとくに気になるのが、「そもそもしてもらったことに気付いていない」というケースです。

伝えるタイミングがわからないとか、どのくらいの温度で伝えればいいのかわからないというものについては、学習機会を増やしてパターン化し、引き出しを増やすことでうまく対応できるのではないかと思います。

しかし「そもそもわからない」となると、ここには何かしら工夫が必要だろうなと。

そもそも定型的には、ASDの「そもそもわからない」という感覚がわからないので、ここがどうしても相容れないわけです。私もこれに幾度となく打ちひしがれました。というかとどめを刺されたのがココというか。

いわゆる定型的な感覚の我々は、人が自分のために何かをしてくれた時はそれが大きな労力を伴うものであれ小さなものであれ、瞬時にその熱量を感じ取っています。相手がどういう思い、どういう覚悟あるいは機微で、あるいはどういう思惑で──というのを、的中率100%ではないものの、かなりの高精度で相手の心情を自然に測って応答できるのです。

ASDからすると「なんで?」かもしれませんが、定型的にはその「なんで?」に対して「なんで?」なわけで、ここに答えの出ないいたちごっこが生まれます。ですからここにスポットライトをあてるのには、それなりに意味があるのではないかなと個人的に思っています。

自分のために大きな代償を払ってくれた人の厚意は比較的わかりやすいと思う(ASD当事者がどうかはわかりませんが)のですが、それを受け取るのと同じように、定型は人のささいな親切の温度や、たとえば飲食店の店員さんなど赤の他人の職務上の気づかいや配慮などにもとりわけアンテナを張り巡らせるわけでなく、自然にそれを受信して適切な言葉や振る舞いを返します。時には本心から。時には礼儀として。

おそらくここの能力値が、定型とASDの「共感の有無」といわれる臨界点が生まれるポイントなのだと思うのですが、かといってASDは「共感できない」わけではないらしい。私も実感として、発達弟を含めその他のASD友人に共感能力がないとも思わないのです。

要するに「相手の目線で物事をシミュレーションするのが苦手」ということなのかなと、現時点では想像しています。感覚的な想像に過ぎずロジックを説明できるわけではありません。自分の中でそのASD感覚をなかなかシミュレーションできないため、当事者が実際にどういうご苦労をされているのか、その実態がいまいち掴めないのです。

しかし、Twitterにはこの辺を上手に消化しているASD当事者が散見されます。彼らの実生活での振る舞いを私は知りませんから、実際にはどのくらいの精度で定型社会に順応しているのかはわかりません。ただいくらテキストベースのTwitterとはいえ、何ターンか言葉を交わせば何となく見えてくる水準があります。

上手に消化している方々はおそらくASDという特性を持っているものの、単純に知能が高い印象です。ここで重要なのは「擬態モード」がどうのこうのでなく、知能の高さです。彼らが定型社会に順応するために育んだ無形の知的財産には、彼ら自身をはじめカサンドラである我々自身にも相当の価値があるものだと感じます。

こういう方々がどういうロジックを用いて定型社会に順応しているのか。目下のところ私がもっとも知りたいことです。

そしてここに「ありがとうの温度」の答えがあるように思います。

実際、私自身「人の厚意をどうやって受信しているのか」を説明できません。これまでは「いや普通に考えたらわかるでしょ」が答えでした。

人が自分に何かをしてくれた時、その「してくれた」という事象だけでなく、その相手の気持ちにまで無意識的に、自然に、瞬間的に思いを馳せます。そこに思考のリソースを割いていません。確かにASD当事者からするとエスパーやテレパシーのような現象かも。

たとえば仕事で自分が何か失敗した。それを先輩がフォローしてくれた。先輩から「いいよいいよこのくらい、先輩として当たり前のこと」と言われたとき「あ、いいよって言ってくれるんだからいいんだ」とならないのは、そのフォローに先輩がどのくらいのコストを割いたかをざっくり理解していて、その上で「いいよ」を口にしてくれる精神的な負担を思い、つまり先輩の気づかいや配慮にまでイメージを巡らせた結果として「感謝」なり「負い目」なりが生まれ、「先輩が自分をフォローするために投じた諸々のコストはお返ししないとな」という感謝や恩が生まれるからです。

粗削りですが、このプロセスのどこにASDとの齟齬が生まれるのか、私はまだいまいち理解できていません。

ここの感覚をすり合わせることができるのは、定型とのコミュニケーションをうまく消化しているASD当事者なんじゃないかなと、私は思うわけです。

今の私のイマジネーションではまだまだ及ばないところなので、お知恵をお貸しいただければ幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?