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【ep18】自閉症スペクトラム(ASD、アスペルガー症候群)の例

「心が伝わらない」というのは、ボディブローのように周囲の人間の首を真綿で絞め付け、再起が難しくなるほど苦悩させるものだ。弟にはASDの傾向があり僕はしばしば苦悩した。

僕がもっとも気に病んだのは、懇意にしていただいている年配の友人から食事に誘われたときのこと。僕のことをいつも可愛がってくれているその方が「弟君にもご挨拶したいな」と言ってくれたので、彼に弟を紹介したいと思いすぐさま電話をしてその旨を伝えたのだった。

時間にして午後八時くらいだったろうか。普通であれば夕食を済ませてのんびりと過ごしている時間帯である。そのこともあり、僕は珍しく丁重に彼にお願いした。「俺の顔を立てると思って」と頭を下げたのは、後にも先にもこの時だけである。というのも、僕は弟に個人的なお願いをしたことがこれまで(おそらく)ただの一度もなかったからだ。

しかし、彼の返答は僕を失望させるほど情動を感じさせないものであった。

「あ、もうご飯食べちゃったし、めんどくさいんで。じゃ」

彼の奮闘を願って、昼食時にはそれこそ毎日のように蕎麦屋やラーメン屋、定食屋などに自費で連れていき、時には自宅に招待して手料理を振る舞い、バーベキューに呼んだり焼肉をご馳走したり買い物に誘ったり。飲みに行った際にはいつもタクシー代を渡し、当然飲食の代金はすべて僕が持ち、僕としては彼に激励を尽くしてきたつもりだった。ところが、自転車でものの十五分程度の現場へのお誘いすらむげにされたのである。

僕はこうした恩着せがましい感情に煩悶する自分が好きではない。だから彼には不満を伝えていないし、思いを汲み取ってもらえなかったからといって仕返しをしたり、根に持ったりはしていないつもりだ。だが、この出来事でこれまでの誠意や思いが反故にされたような、とても悲しい気持ちになったのも事実である。公私ともにこれほど尽くしても何も響かない。彼にぞんざいにされたと感じたことは何度もあったが、このときほど悲しいことはなかった。

定型目線でいえば、この出来事はあるまじきことである。上司の誘いを必ずしも好意的な笑顔で甘受しなければならないという古臭い慣習に対して僕は批判的だが、それでも日ごろから世話になっている人間に対して、それなりの恩義で応えるのが普通ではないだろうか。僕だけに限らず、彼はほかの誰に対しても思いやりや優しさを享受するだけで、それに応える姿を僕は見たことがない。

一方、発達目線でこれを語ると「定型が勝手に期待しているだけ」ということになる。確かに勝手な期待というのは厄介なもので、世の中には「頼んでねえよ。お前が勝手にやったんだろう」というような大きなお世話があふれ返っている。彼からしても、僕は単に「ごはんを食べさせてくれる人」「便利な人」「勝手に親切にしてくれる人」程度のものだったのかもしれない。好きでもない人からバレンタインチョコレートをもらっても、その好意には必ずしも応えられないのと同じだろうか。

だが僕だけならばいざ知らず、周囲の人間の厚意をふいにする彼の姿は、僕には見過ごせるものではなかった。借りた物を返さないだけでなく、恩義すらも返さない彼を指摘しても「あ、忘れてた」といった具合である。それが彼の特性であったとしても、結局周囲のフォローは僕の役目。その負担に憤りを感じるのでなく、僕は失望する周囲の人間に申し訳ない気持ちでいっぱいで居た堪れないのだった。

正直な話、これらの件は僕に理解あるいは納得できるものではない。何とか理解しようと努めるが、僕にとってはどうやっても正当化できない傲慢さだ。人はやはり感情的な生き物であるし、社会は何だかんだ言ったって人と人の心でつながっている。それは商社や大企業、外資企業と取引していても感じる。どれだけビジネスライクに発展した企業であっても、結局現場にいるのは人間なのだ。だから商売の上手な人は、あらゆる面で人の心を大切にするのだろう。

僕にとって、彼の素行はとても理解できるものではなかった。

だが根底で理解できなくても、許容することはできるかもしれない。あるいは彼に譲歩することができる。なぜなら、根拠もなく他人から期待されることの理不尽さを僕自身も体験として知っているからだ。僕はこの件を通して「理解よりも許容が大切なのだ」と改めて思った。

彼からすると、僕の善意は独り善がりなものだったのかもしれない。だから僕は失意の底にあっても、彼を責める気になれないのだ。

同時にそのころから僕は彼に対してビジネスを、つまり客観を求めるようになった。心が通じない人間に対して一方的に愛を与え続けるのは、非常に苦しいことである。また彼もそれを望んでいないとなれば、心で通じ合おうとする理由がなかった。

しかし彼が僕の心情的なサポートなくして生きていけなかったのも事実なのである。

まるで親と幼児のような、個一個の大人としてとてもいびつな関係性がそこに出来上がった。そしてそれは彼にとって栄養満点の関係であり、僕にとってはサハラ砂漠のように不毛な関係であった。

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