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【ep15】発達障害者の最悪な結末

社会的な責任を人並みに負っている人間が発達を愛するというのは、ひどく現実離れしたファンタジーのように思える。少なくとも社会活動を行う上で、発達を愛する理由は僕にはほとんど一つもない。

しかし、もし彼らの住みよい社会を築けたなら、我々にとってもそれはストレスフリーな社会になるのではないかという期待はある。

ところで弟には、交際して十年ほどにもなる恋人がいる。彼の発達特性にずいぶんと悩まされているようだが、それでも「私には彼しかいません」と明言するほどの情である。

そう考えれば、彼は非常に恵まれた境遇にある。今後の人生をともにしたいと自ら願う健気な恋人がいるのだから。

彼らは結婚していないし、夫婦という責任の伴う関係ではない。おそらく上司部下以上に親密なコミュニケーションが求められる夫婦関係になるというのは、かなりしんどいはずだ。

いずれにせよ、ビジネスパートナーとして発達と付き合うか、あるいは人生のパートナーとして発達と付き合うか、その境遇によって発達自身やカサンドラの苦しみの質も変わってくるだろう。残念ながら僕には発達の伴侶を持つ人間の苦悩がいかんばかりか正しく想像はできないが、それが計り知れないものであると想像するのは容易である。

僕が想像する最善の道は、障害者手帳を交付してもらい、障害者枠で自立への道を探すこと。たとえ稼ぎが大きくなくても、経済的に自立できるだけの収入が得られれば万々歳といったところだろうか。

しかし現実として、それはかなり飛躍した理想とも感じている。なぜならこれまでにも繰り返し述べてきた通り彼には特別なスキルも経験もないし、一方で重度障害者ほどサポートが必要なように見えないからである。

僕が想像する最悪の結末は、彼が障害者と認定されなかった場合だ。その場合は社会的なサポートも受けられないし、その特性は周囲からも受け入れられないだろう。四十代後半から五十代にも差し掛かれば、いよいよ本気で「自殺」という選択が現実味を帯びてくるかもしれない。

発達障害者が一般社会で幸せになるのは、非常に難しいことだと感じる。「それでも周りがサポートしてあげれば……」という考え方には賛成だが、正直そんな生易しいものではない。

カサンドラ症候群の立場の人間は、言うなれば毎日夫から理不尽なDVを受けている妻のようなものだ。まさに僕自身、一時期は本当に毎日暴行を受けている気分であった。それはあまりに惨めで哀れで、人生の悲惨な時間であった。

こうした被害を減らし、双方ともに快適に働ける環境を作るためにも、時には「発達障害を理解しサポートする」ではなく、「発達障害を正しい場所へ導く」という判断も必要なのではないかと思う。

発達にしてもカサンドラにしても、最後には孤立して心を病み、自殺という最悪の結末を招かないためにも。


解説)

発達弟は今、障害者年金をもらっているはずです。社会福祉の世話になりながら親に生活の面倒も見てもらい、彼女とデートに出かけるときの費用はすべて彼女持ち。さらに将来的には実家も相続する(両親との絶縁前に聞いた話。長男の私には何の相談もなし)とか。

彼のために手帳交付を目標に自立支援、診療に奔走した私は一体何なのだろうと、今この手記を読み返して改めて思いました。

ここにきて私のカサンドラ症状はずいぶんと回復しましたが、今、まさに今これを書いている瞬間、私は怒りを覚えています。

しかしこれはカサンドラ的な症状ではなく「正しい怒り」なのだと思います。

寄生虫のように他人の養分を吸い取りながら生き続ける彼の将来を悲観し、寄り添ってあげる必要は本当にあったのか?

私の答えはこうです。

「必要なかった」

私は筋を通して彼と離れた自分を誇りに思っていますが、その誇りすらも踏みにじられるほどにこの問題はどんよりべっとりと私の心の内側に張り付いています。

悲しい結論ですが、カサンドラは発達の前で過剰な優しさを抑え、客観と合理で行動するしかありません。そうしてwinwinの関係を築けないのなら、執着などせず離れればいいのです。

自ら都合よく利用され寄生されにいくに値する理由があるなら話は別ですが……


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