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“思い込み”という呪いと魔法

主観的に生きる“人間”という生き物。

どんなに客観的な視点に努めても、決して物事をパーフェクトな客観で見ることはできません。適切な医療や心のケアが難しいのも、ひいては人生が必ずしも達成や成功だけで彩られないのもこの辺りが原因でしょう。客観とは実はあいまいで、人は主観を主体に生きています。

客観性はとりわけ学問において求められる重要な素養ですが、主観的な生き物である我々人間にとっては、学問よりも感情や心の方がよっぽど身近です。喜怒哀楽の日々、我々は頭や心の主観活動の中を生きています。今回取り上げるのは、その中でも特に人の性質として異様なほど私達の生活に影響をもたらす「思い込み」の心理です。

思い込みのメカニズムを知らなければ人は不幸になり、思い込みの作用を知れば幸せになりやすい──というお話をします。

思い込みで幸せになる「プラセボ」

プラセボ効果あるいはプラシーボ効果という言葉を聞いたことがあると思います。偽薬効果ともいわれるように、患者に偽物の薬を与えると「この薬は本物だ」という思い込みから、まるで本物の薬のような効果が得られる──というのが典型的な例です。思い込みにより薬効が得られるという人体反応は、薬学的に解明されているわけではありませんが、脳科学や心理学的にはずいぶんと研究が進んでいます。マジックや催眠、メンタリストDaigoさんに代表されるメンタリズムにおいても、これと似た“思い込みをコントロールする”手法を採用しています。

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんは、アルコールの入っていないドリンク(お茶など)をお酒だといって飲ませると見事に酔っぱらうというエピソードがありますが、これも(演出上の創作でないのなら)思い込みによるものでしょう。

広告マーケティングやプロモーション戦略、ブランディングなどでもこうしたテクニックが散見されるように、意外と人の知覚は単純なものです。

実は私にも、プラセボにかんする面白いエピソードがあります。ある日、体調が悪く「熱っぽいかもしれない」と妻に相談したところ、妻に体温を計るよう促されました。体温計がピピッと測定完了のお知らせを発すると同時に、妻は私の脇へスッと手を伸ばし体温計を取り上げ、数値を見ると「熱はないね」と一言。

その日、私は特に体調を気にすることなくいつも通りに一日を過ごしましたが、後々聞いたところによると、実は微熱があったのだとか。それでも私は妻の一言で「自分に熱はないんだ」と思い込んだまま特に不調を感じずに過ごしました。「いつも通りに仕事がしたい」という私の心情を察した上での、妻の咄嗟の判断だったようです(いい意味で見事にやられました)。

私はできるだけ物事を合理的かつ客観的にジャッジするよう努めていますが(確かに単純な人間ではあるものの)、それでもこの通り、思い込みの前に人の思考や思想など無力だと感じます。

プラセボがどのようなものか、何となくわかっていただけたかと思います。この思い込みは、うまく使えば健やかな日々、心身の健康の一助になります。

思い込みという呪い「ノーセボ」

プラセボと対称的な言葉として、ノーセボあるいはノセボという言葉があります。こちらもプラセボと同様“思い込み”を表すものですが、プラセボが人にいい影響を与える一方、ノセボは悪い影響を与えるものをいいます。

有名なエピソードとして、1883年にオランダで行われた実験が挙げられます。その実験というのは、ブアメードという国事犯を利用した人体実験です。医師団はブアメードにあらかじめ「人間は体内の2/3程度の血液を失ったら死亡する」という予備情報を与えておき、その上で目隠しをしたままブアメードの足の指に傷をつけ流血させます。医師団は出血量をモニタリングし、随時ブアメードに知らせます。結果、体内の血液が残り1/3程度のところでブアメードは息を引き取った……というお話。

しかしこれは実は心理実験で、ブアメードの足に傷はついておらず、血液がしたたる音も水滴をしたたらせていただけだったという、いわば都市伝説のようなエピソードです。真偽は定かではありませんが、ノーセボ効果を語る上でひんぱんに引き合いにされる有名なエピソードです。

ここまで極端でないにしろ、たとえば臨床試験などでは服薬におけるノーセボの副作用などがしばしば報告されるといいます。日常生活でも心当たりがあるはずです。たとえば「この食べ物、消費期限が切れているけど食べても大丈夫だろうか?大丈夫だろう、ええい食べちゃえ」といったしばらく後、実際に体調が悪くなったことがあるという人は少なくないでしょう(私も経験があります)。これもノーセボの一種(実際に細菌が悪さをしている可能性もあるので注意!消費期限内に消費しましょうね)。ノーセボはどうやら「不安」や「猜疑心」によりいっそう強く作用するようです。

プラ・ノー・セボの呪いと魔法

思い込みだけで人は強くなり、弱くもなるということがわかりました。思い込みで強くなれるのなら、それはまるで魔法のようなものです。しかし思い込み一つで弱くなるのなら、それはほとんど呪いといってもいいでしょう。実際、呪いや祟りといった類もノーセボによるものだとか。ですから、人に呪いをかける際は、相手が「自分は呪われた」と認識しなければ効果がないそうです。

さて、プラセボとノーセボを人生でうまく活用する指標となる一つの言葉があります。何かおわかりでしょうか?

それは「自信」です。

思い込みがプラセボとしてポジティブに作用していれば、それは自信の表れ。思い込みがノーセボとしてネガティブに作用していれば、それは自信喪失の状態です。

つまり「自分自身に対する思い込み」の話。自己評価の思い込みの話です。

私は「人が成長したり、前向きな活動をするためには必ず自己肯定感がなければならない」としばしば口にします。この自己肯定感とはつまり自信のことで、自信を身につけるには“大なり小なりの成功体験”を積み重ねるのがもっとも効果的だと考えています。

なぜなら、物事を達成した経験や他者から評価された経験というのは、「自分はできる」という自己暗示(プラセボ)をかけるのにもっとも効果的だからです。あるいは勤勉に本を読んだり、資格を取得したり、アクティビティに挑戦したりするのにも一定の効果が期待できるでしょう。

つまり「自信」とは、思い込み(プラセボ)の一種だと考えています。

一方、何も達成できず「俺は私はダメな人間だ……」と思い込んでしまうと、実際にいろいろなことがうまくいかなくなります。本来はできることさえもできなくなってしまう。プラセボだと実力以上の力を発揮できるのに、ノーセボだと等身大以下の成果しかあげられない。人間はかくも単純か。しかしこれが現実です。どうやら人間という生き物を「複雑だ」と過大評価するのは、いったんやめておいた方がよさそうですね。自信や自信喪失という思い込みは、社会生活において人の行動や決断を大きく左右するのです。

通常、この自信というポジティブな思い込みは、日常的な暮らしや社会生活を送る中で自然に育まれるのが理想でしょう。私もボスとしてあるいは講師として、部下や生徒を「褒める」方針で教育しています。ダメ出しをされるより、いいところを褒められて伸びる人の方が多いからです。信頼できる人間からの肯定的な評価は、自己肯定感を高めるプラセボを生むのにとても効果的です。

しかし個々の資質にかかわらず、社会ではさまざまな事情から才能を存分に発揮できなかったり、不満やストレスを抱えたまま生きなければならなかったりします。成功体験や他者からの評価に依存する「自信」を身につける機会が、必ずしも多いわけではありません。

これを解決するには、成り行きや周囲に自分の評価を委ねるのでなく、自分自身でコントロールしていく必要があります。

自分で自己肯定感を高めるために

思い込みの心理作用をうまく利用するには、自分にプラセボ効果をもたらす習慣が大切です。もちろん「この水は薬だ」と自分に言い聞かせてただの水を飲んでも病に効果はないでしょう。なぜなら「これはただの水」と知っているから。ノーセボを思い込みで克服するのも難しく、消費期限が切れたものを「これはまだ消費期限内だから大丈夫」と自分に言い聞かせて食べても意味がありません。本当は賞味期限が切れていることを知っていますし、本心では「でも……」と思っているからです。

本心から思い込んでいなければ、思い込みではありません。

ではどうやって自分にポジティブな暗示をかけるか。

それは、前項でお話ししたように「成功体験を積み重ねる」ことです。

先ほど「大なり小なりの成功体験」という表現をしましたが、この「大なり小なり」の部分が肝。小さな成功体験でも構わないのです。

最近は何かと筋トレやエクササイズが話題になりますが、これも小さな成功体験を積み重ねる一つの方法です。あるいはジョギングやウォーキングでもいいですし、とにかく自分で決めた目標を達成し続ける習慣を身につけることが大切です。

もちろん大きな成功体験が得られるなら、それに越したことはありません。小さな~よりも大きな~の方が自信を身につけるのに効果的です。たまに劇的な成功を手にして思い上がり、成功したかと思ったら人間的に堕落していってしまう人がいます。これはプラセボが悪い形で影響したケースです。しかしたった一つの成功で人はこうも思い上がり、特別な存在になったかのよう錯覚するのですから、これもまた思い込みのインパクトを物語っています。

小さな目標を設定しそれを達成する。これを積み重ねていくことで、プラセボはじわじわと人生に活力を与えてくれるでしょう。もしノーセボに心をやられている方がいれば、ぜひお留め置きください。

「自分はダメな人間だ……」というその思考が、ノーセボによる思い込みに過ぎないのだといつしか気づけるかもしれません。

プラセボよりノーセボの方が強い

人はどうもポジティブな情報よりも、ネガティブな情報に振り回されやすいよう設計されているようです。自己肯定感を高めるには小さな成功を根気よく積み重ねていかなければなりませんが、そうやって積み重ねてきたものがたった一度の失敗で崩れ去ってしまうケースがあります。

そういうとき、「もうダメだ……やっぱり自分は何をやってもダメなんだ……」と、以前にも増して打ちひしがれることがあるかもしれません。

しかし、結果は自分を裏切らないのです。たった一度の失敗により、これまで小さな成功体験を積み重ねてきたという実績が消えてなくなるわけではありません。「たった一度の失敗(たとえ一度でなくても)」というネガティブでなく、「積み重ねてきた実績」というポジティブにフォーカスし、「失敗するまでよくやってきたよ」と自分を褒めてあげてください。

次は同じ過ちを繰り返さないよう、失敗を教訓としましょう。

そして「物事を正しく判断する」ということも、思い込みを味方にするのと同等に重要なことであることも理解してください。

いくら小さな成功を積み重ねても、最終目標に手が届かなかったりかすりもしなかったりということが人生には起こり得ます。それはもしかすると、立つ舞台を間違えているのかもしれません。自分の実績を自分で否定するようなことがあってはなりませんが、それと同じくらい「理想の自分(なりたい自分)にしがみつく」のも危険です。

「ここが潮時、次に行こう」と気持ちをスイッチする勇気も、時には必要なのです。

「こんなに労力と時間を費やしてきたのだから今さら後戻りできない」というノーセボは、思い込みの類でもっとも厄介な部類だと私は考えています。本当に後戻りできないのか?それともしたくないだけなのか?主観でなく客観に努め自分をジャッジする必要があります。

幸せや喜び、楽しい思い出よりも、悲劇や苦痛、トラウマは圧倒的に人を支配します。その現実と向き合うには、自分(人間)の弱さや欲、業をまず認め受け入れる必要があるでしょう。

難しいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、なんてことはありません。自分にできることとできないことをちゃんと判断する──というだけのことです。思い込みとはまた別のトピックで、これは「客観の努め方」の話。いずれこれについてもお話ししたいと思います。

実例

最後に、思い込みが人にどれだけ大きな影響をもたらすか──についての実例をお話しして話を締めくくります。

発達障害者の多くは、他者から受け入れられない経験が多いため自己肯定感が低いといわれています。発達障害当事者である私の弟もそうでした。

そんな弟と仕事をともにし(経緯など詳しくは他の記事をご覧ください)、解決の必要があると私が感じたいくつかの問題の一つに、彼の「自己肯定感の低さ」がありました。

要点のみお話しすると、この問題を解消するために私は彼を海外顧客の指導へ向かわせました。指導員として海外へ一人派遣したのです。「ヘマをしても俺が責任をとるから、やれるだけのことをやってきなさい」と。

彼に与えたかったのは、「一人で海外に行った」という成功体験と「見ず知らずの(言語も通じない国で)仕事をしてきた」という成功体験です。仕事の成果など正直どうでもいいと考えていました。

結果的に帰国後の彼の顔つきは精力的で、自信に満ちていました。

私が「お前はこれこれこういう凄いことをやり遂げた。自分を誇ってもいい」と説明するまでもなく、彼は自らの成功体験をしっかりと自覚していたようでした。

いつもどこかおどおどし内気な彼でしたが、この時ばかりは違ったのです。彼にとってよほど大きな成功体験だったと思います。

これで私は、成功体験の大切さを改めて確信しました。そしてそういう体験を彼に与え続けたいとも思ったのですが、そのころに私は既に心を病んでおり叶いませんでした。彼を一人で海外顧客の元に送るのは、私としてもリスクを伴う決断です。最後の手段の一つとしてカードを切った形でしたが、この通り自己肯定感の正体をほんの少し垣間見れただけでも、この決断をしてよかったと思っています。

こんな大胆なケースでなくても、成功体験が人の心に計り知れない影響をもたらすのは確かです。そしてその機会は誰かに与えられずとも、小さなところから自分でコントロールすることができます。

「自分はダメだ……」というノーセボを作っているのは何か。

自己肯定感の低さの原因は何か。

誰があなたの前進を妨げているか。

自分自身の性格や才能や特性や境遇である前に、ネガティブを肯定してしまっている自分自身の思い込み(ノーセボ)なのだということに、どれだけ早く気付けるかが肝要だと私は思います。

価値のない人間はいません。

問題は、いかにして価値を見出すか。

そのジャッジを他人に預けるのは、プラセボを味方につけてからでも遅くありません。

たとえ小さくても、成功体験によって培われた実績は決して自分を裏切らないということをお伝えしたく思います。




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