見出し画像

日本語との向き合い方③

【第5章 現代の日本語】
近年、新聞の役割が大きく変化してきていると感じる。それは言うまでもなく、スマホやテレビの普及によるものだろう。新聞が刊行され始めた当初は新聞だけが情報の頼りであった。しかし、現代は様々なものから情報が入手できるようになった。そして、ペーパーレス化も大きな話題に上がっているため、今後徐々にではあるが新聞の発行部数は少なくなっていくだろう。しかし、特にご年配の方にとっては今もなお便利なものであり、さらに電車内では新聞を読んでいるサラリーマンの方も見かける。新聞の需要は今でもあるため、新聞が完全になくなることはほとんどないのではないかと予想する。

メデイアやスマートフォンの普及によりコミュニケーションの形式自体も変化しているが、日本語も大きく変化しているのではないかと感じる。LINEなどではスタンプというものがあり、多くの人が使用しているだろう。確かに文字だけのやり取りよりもスマートフォンの画面が鮮やかになることや、自分の気持ちを相手に可視化して伝えることが出来るという点では優れていると感じる。文字上のやり取りでは顔を見て話すことが出来ず、相手の表情が分からないという問題点がある。この問題点を少しでも解決する手段のようにも思える。しかし、スタンプや絵文字に頼りすぎてしまうと自分の気持ちを文面に反映させる能力が衰えてしまうことに繋がるのではないかと私は考える。その悪影響を受けている可能性があるものとして、SNS上で相手を傷つけてしまうことが例に挙げられる。この例は、相手に配慮しつつも「自分の考えや気持ちを正しく伝える「適切な表現」が出来ていない」というような影響が分かりやすく出ている例なのではないかと考えている。

前の段落で少しSNSについても触れた。新聞や本が刊行され始めた頃に比べ、今ではインターネットの普及により情報が広く拡散される時代になった。地域や国内の情報交換から、世界の情報交換へと情報交換の範囲が格段に広くなったことは多くの人が経験しているだろう。今では誰でも発信者になれる時代であり、不特定多数の人がその情報を受け取る時代でもある。様々な人が情報交換に参加する時代だからこそ、書き手の工夫と読み手の工夫「どちらか」ではなく「どちらも」必要になると考えている。

キラキラネームが流行ったり、有名なアスリートと同じ名前にしたりと子供の名前には時代が色濃く反映されていると言われる。アスリートなど有名な方と同じ名前にすることについては、ほとんど否定的な意見はないように思う。一方で、キラキラネームについては賛否両論があり多くの議論がされているように感じる。子供の名前に対しては、今後どのような議論がされるのか、どのような見解が示されるのかは興味深い問題ではある。そして結果的にどのような傾向になるのか。現代は、名前のあり方が問われている時代のように感じる。数年後に子供の名前に関しての「過渡期」のような時代として、現代を振り返るときが来ることも可能性としてあるのではないか。

【第6章 日本語の未来】
みなさんは人前で話すことは得意でしょうか?私は正直苦手です。日本人には私のように人前で話すことに抵抗がある人が多いということはよく言われている。しかし、グローバル化も進み日本人相手だけでなく様々な国籍の人がいる前で話す機会も今後ますます増えていくように思われる。私も含め多くの日本人は間違えること、恥ずかしい思いをすることを極端に怖れるのではないか。日本はアメリカなどのように昔から多種多様な人々が混ざり合って生活をしているわけでもない。様々な人がいれば、考え方やコミュニケーションを取らなければお互いを理解することが出来ず、安全な暮らしをすることさえままならない状況にもなりえる。日本では昔から、今でいうグローバル化のような環境に対する経験が少ないことも、人前で話すことに抵抗がある理由の一つなのではないかと予想する。

今回は日本語について焦点をかなり絞りながら書き綴ってきた。しかし、世界のどこでも日本語が通じるなんてことはない。むしろ、海外では通じないことがほとんど。主に海外では、世界共通語とされている英語を使うことになる。英語は多くの国と地域で話されているということもあり、我々のような英語を母語としていない人が英語を話していてもたいていの人は受け入れてくれるだろう(受け入れてくれると信じたいです)。しかし、日本語は日本人同士で話すことが圧倒的に多い。そのため、海外から来た観光客が日本語を話していると、一生懸命勉強したことや上手な日本語に尊敬することもあれば、どうしても違和感を感じることも多いのではないか。しかし、このように海外の方の日本語に違和感を持つことこそ、言語の世界交流に自分自身の感覚が追い付いていないなと感じる。なるべく早く日本も、私も含めた日本人も世界のグローバル化に追いつけるようにしたい。

少し海外にも目を向けたが国内に戻ってみる。近年、アイヌ語をどう守っていくのか、全国各地の歴史の象徴ともいえる方言をどう守っていくのかについてよく議論されている。この問題は、このままでは伝統がなくなってしまうと声を挙げる人が多く、危機感がある問題と言える。私自身あまり方言などには詳しくないが、自分に置き換えると日本語が消えてしまうような感覚のものとして捉えている。長年必死に伝統を守り抜いてきた地元の方のことを考えると、消し去ってはいけないものだと思う。グローバル化が進み多種多様な人間、言葉、文化などが混在し認められていく世界で、一つの日本の文化として地域伝統は認められるべきなのではないかと現時点では考えている。(今後、私自身しっかりと学習し理解を深めなければいけないと感じています。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?