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シンガポール旅行⑥ 二日目 麗しのラッフルズ

 疲れ切った私達を乗せて夜道を走ること数十分。バスは白く優美なホテルの前で静かに停車した。
 このホテルこそが本日最後の目的地、ラッフルズホテルだ。

 シンガポールを訪れるものならば知らぬものはない有名ホテルラッフルズ。古くは喜劇王チャップリンやジョセフコンラッド等、名だたる名士にも愛されたこのホテルは、その由緒ある歴史のみならずコロニアル調の美しい外観と世界でも有数のホスピタリティにより名門ホテルの名を欲しいままにしている。らしい。

 まさにシンガポールに訪れたからには一度は宿泊しておくべきホテルだが、一泊の最低価格が七~八万というホテルになど私と友人が泊まれるはずもない。泊まった瞬間に全ての金を失う。分相応という言葉を知っている我々はラッフルズについては知識を得るだけに留め、交通の便のみを追求したそこそこ程度のホテルに泊まっていた。

 泊まっていた、のだが、一日目にチリクラブを食べるために外出した際、その宿泊しているホテルのほぼ向かいが噂のラッフルズホテルだということに気付いてしまったのだ。  もちろん我々は歓喜した。 「こんなのもう、ラッフルズに泊まってるようなもんじゃーん!」  と、てらいなく勝鬨をあげた。  
 本物のラッフルズの客側からすれば一緒にしないでくれよと思われるだろうが、こちらからすれば手の届かない存在と思っていた名門ホテルが(物理的に)手の届く存在になったのだ。全力ですり寄る。  
 すぐさま我々はガイドブックで宿泊客以外でも立ち寄れるラッフルズの施設がないか調べ上げ、その結果、ホテル内にあるというロング・バーの存在を知ったのだ。

 そういったわけでまさに今、私と友人は暗闇の中ラッフルズホテルの側面をうろうろすることになっていた。  
 もちろん正面玄関の場所は分かってはいる。しかしながら正面からの侵入にあたっては一つ大きな問題が存在していた。ラッフルズホテルの従業員はその炸裂するホスピタリティの結果、宿泊客の顔と部屋番号を全て暗記しているらしいのだ。過剰すぎる親切。そしてその情報が本当ならば、私と友人が正面から入った場合、ドアマンがドアを開けたその瞬間にはもう、招かれざる客であることが全ての従業員に一瞬で悟られてしまう事となる。
 我々のどちらか一方でも英語が達者ならば「ちょっとバーにだけ寄ろうと思ってね!HAHAHA!」みたいなノリでずけずけといけるかもしれないが、現実の私と友人の英語力では「あ…あ…ぁ…」みたいなことを言いながら、バーを探し不審な挙動で館内を練り歩く未来しかない。ホテルに警備員がいるのならば、我々をつまみ出さずに他に何をつまみ出すというのか。    

 そのようなわけで私と友人は、暗闇の中側面から入る道を探しさ迷い歩いていたのだ。

「だめだ…全然見つからない」
「外の廊下、めっちゃ綺麗じゃない?もう宿泊客のふりしてここで記念写真撮って帰る?」

 諦め半分でだだっ広いラッフルズの壁面をあてもなく歩くこと十数分。どういうわけか私と友人はロング・バーの前までたどり着いていた。こんなに適当に歩いていて目当ての場所にたどり着くなんて、神の采配としか言いようがない。恩寵が凄い。

「ヤバいよ…大丈夫かな…?」
「逆にここまで来たら行くしかないか?」  

 いざ扉を前にして湧き上がる宿泊客ではない負い目を持ち前の野次馬根性が上回り、ままよ、と勢いにまかせドアを開ける。

 バーはほぼ満席だった。ゆったりとしたビアノの演奏が流れる店内は想像よりもずっと開放的で、ラフな格好をした人々がリラックスして会話を楽しんでいる。  
 よかった。カクテルドレスを着ているような人々の集いであったらどうしようかと少し心配していたのだ。  

 密かに安堵する私達のもとに、にこやかにボーイが近づいてきた。どうやらつまみ出されることもなさそうだ。  
 笑顔のボーイに案内され、中央付近のテーブルへと向かう。店内のテーブルを見ると、その全てにピーナッツのどっさり入った麻袋が備え付けてある。そして、これまた全ての席の客が食べたピーナッツの殻をためらいもなく床に捨てるため、床が尋常ではなく滑る。ここでスケートができるのでは?というくらい滑る。

 さすがにここで大転倒しては恥が過ぎるのですり足で慎重にテーブルに着くと、メニューを置いたボーイが陽気に注文を待っている。

「シンガポールスリリング、ワン、プリーズ」

 英語と認識していいのか?という程の片言で、酒の飲める友人はそう高らかに宣言した。  
 シンガポールスリリングとはまさにこのロング・バーで生まれたシンガポールを代表するカクテルで、ジンベースの甘酸っぱいカクテルらしい。私も友人に追随しその名物カクテルを味わいたかったのだが、なにぶん体質的にアルコールが飲めない。ジンなんていかにも強そうなベースのカクテルを頼もうもんなら、冗談抜きで死ぬ可能性がある。

「ミックスジュース、ワン、プリーズ」

 カクテルへの憧れを断念し、おいおい、ジュースで千円近くするのかよ…という内心の動揺を滲ませながら私も続いてドリンクを注文した。

 オーダーを聞いたボーイは「オーケィ!」というとリズミカルにメニュー表を回収し、ターンをするような軽やかな足取りで去っていく。ボーイがとことん陽気なのか、床に散らばる無数のピーナッツの殻のせいでそのような動きを余儀なくされているのか、真相は謎だ。

 それにしても、とても雰囲気のいいバーだ。
 そもそも今までの人生でバーという名のつくものに行ったのが福岡中洲のおかまバーと東京の坊主バーしかないため比較対象としていいのかいまいち不安だが、ここのバーにいる客は全員がしっくりきているというか、居心地よくなじんでいる感じがする。この高級ホテルに対し明らかに場違いな我々もそれは例外ではなく、気付けばバンドの生演奏が流れる中、どっかりと椅子にもたれていた。

 待つことしばし、「これ、無料だよね?」と言いながら恐る恐る備え付けのピーナッツを食べ「これ、床に捨てていいんだよね?」と言いながら恐る恐る床に殻をまく私たちのもとに、待ちわびたシンガポールスリリングが運ばれてきた。オレンジがかった鮮やかなピンク色のそのカクテルにはパイナップルとチェリーが添えられており、見るからにトロピカルで美味しそうだ。

「うん!美味しい!かなり美味しいわ!これ」

 ちびちびとカクテルを飲みながら、満足そうに友人が頷く。  
 私も自分に運ばれてきたフルーツジュースを口にする。無論美味しい。ただ、フルーツジュースがつまるところ果物の汁であるという以上、どれほど美味くしようとも限界値が存在するな…という気分にはさせられた。

 ともあれ、美味しいことには変わりない。

 旨い酒に美しい音楽、居心地の良い店内に愉快な会話。ここには必要なものが全て揃っている。旅の夜を過ごす場所として、これ以上の場所もそうはないだろう。  
 ご機嫌にピーナッツの殻をまき散らしながら、シンガポール旅行二日目の夜はゆっくりと更けた。

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