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シンガポール旅行① 一日目 情熱のチリクラブ

 マーライオンの国。赤道間近のシンガポールの地に降り立ったのは、9月も半ばのよく晴れた日のことだった。

 世間ではまさにエボラ出血熱が大流行中。連日のようにどこそこの国で新たに罹患者がでたとのニュースが飛び交っており、未だ発症者はいないとはいえ交易が盛んなこの国での滞在にかすかな不安の影を落としていた。

 しかしまぁそれはそれ、これはこれ。多分大丈夫だという根拠のない自信を胸に夕刻チャンギ国際空港に降り立った私と友人は、ホテルまで向かう車の窓からさっそくこの国のシンボルともいえる代物を目にすることができた。マリーナベイサンズだ。

 今やマーライオンを押し退けてシンガポールの象徴的存在となりつつあるこの高級ホテルは、さまざまなファッションブランド店から飲食店、果ては巨大なカジノまで内包した超巨大複合施設となっている。
 しかしながらこの施設の最大の目玉はその中身にはなく、その外観にあると言っていいだろう。天を貫かんばかりの200メートル超えの高層ビルが三つ連なっているだけでも圧巻なのに、その上に橋を架けるかのように巨大な船がどっかりと鎮座しているのだ。その船の大きさたるや全長約350メートル。そんなものが空に浮かぶようにビルの上に乗っている。もはや旧約聖書のノアの箱船の世界観だ。

 遠目からでも分かるその特異な建物をひたすら凄い凄いと賞賛した我々は、シンガポールで最初の目的地へと向かうべくホテルに着くや否や荷物を置いて歩きだした。
 日もだいぶ暮れてきたこの時刻、目的はもちろん今夜の夕飯、チリクラブだ。

 シンガポールに数ある名物料理の中でも一二を争う知名度を誇るこのチリクラブ。
 調理方法は生きたカニを一匹丸ごと茹でた後に、チリソースをぶっかけさらに煮込むという至って豪快かつシンプルなものになっている。  
 今回我々が予約したのはジャンボ・シーフードという店で、カニの新鮮さやチリソースの美味しさから地元でも一二を争う人気店だ。期待が高まる。ちなみにこの店はインターネットからの予約も可能であることからろくに英語がしゃべれない外国人観光客にとっても親切な設計となっている。とても助かる。

 そんなジャンボ・シーフードを求めてホテルを出てさまよい歩くこと数十分。  
 それにしてもシンガポールはマレーシアから独立した人口の8割近くを華僑が占める国で、どちらに転んでもアジア感満載の国のはずなのに街並みからは全くアジアを感じない。マイアミあたりでも歩いているかのようだ。まぁ、マイアミに行ったこと自体が無いからよく分からないんだけどな。  
 見上げれば首が痛くなってしまうほどの高層ビル群に白を基調とした涼しげな建物達、歩道も驚くほど綺麗に整備されており、そしてなにより緑が圧倒的に多い。  

 至る所に木が植えてあるのだが、道路脇にあるお情け程度の街路樹のようなものではさらさらなく、樹齢数百年は経っていそうなどっしりとした大木や、ちょっとした公園くらいはありそうな木々の茂みがそこかしこにあるのだ。白い建物群と取り巻く緑の組み合わせは目に心地よく、なにより日差しの強いこの国でこれらの木陰は本当にありがたい。

 街並みの美しさを十二分に堪能した我々は、唯一無二の外見を誇るマリーナベイサンズがランドマークとして大活躍してくれたこともあり、さして道に迷うこともなく無事に目的地のジャンボ・シーフードに到着した。

 たどり着いたジャンボ・シーフードは川沿いに面したアメリカドラマにでも出てきそうなオープン感溢れる店だった。ガラス張りの解放感溢れる店内はもとより、川沿いにはかなりの数のテラス席が設けてあり、開店間もないというのにすでに多くの人が席に座って歓談している。  
 案内されたテラス席から見える建物はどこか西洋風で、暮れなずむ街並みに比例してぽつりぽつりと色鮮やかなネオンが灯ってきている。目の前を流れる川は両側に軒を連ねる店店の明かりを水面に弾いて揺らいでおり、その美しい景色を見ながら散歩する人々の異国語での語らいの声もあいまって、抜群の雰囲気を生み出していた。  
 今この瞬間に同じく夕暮れを迎えているであろう世界中のあらゆる街角、その中でも特にとびきりの場所に来た。ここの空気は人をそんな気持ちにさせてくれる。時間を気にせずのんびり座りながら、この穏やかで活気ある夕暮れの中人々の楽しげな語らいの声に耳を傾けていたい。まだ一品の料理も出てきてはいないが、最高の店かもしれないという予感があった。    

 ひとしきりあたりを見渡した後、私と友人は目を皿にしてメニューの内容を吟味した。ひとまずチリクラブとその付け合わせの揚げパンは頼むとして、問題はその他の料理だ。何か頼むべきか。カニ丸々一匹でも相当な量だとは思うが、この店はチリクラブ以外の料理もとびきり美味しいとの評判なのだ。迷いに迷ったあげく、海鮮チャーハンとココナッツジュースを追加注文した。ココナッツジュースに関しては「南国っぽいじゃん!一度は飲んでみたい!」という友人と私のミーハー心が生みだした産物だ。 

 ともあれ、メニューが決まったからには早速注文だ。目があったボーイに大声で「エクスキューズミー!オーダー、オーケー?」と得意のカタカナ英語を炸裂させる。こんなにも語学力がないのにフリープランを断行している事実が恐ろしい。  
 私達が手にしたメニューを一瞥し、意図を察したらしいボーイは手早く注文を取り終えると颯爽と去っていった。ふぅ。「ディスワン」と「ディス・・・ツー!」しか喋れなくても何とかなるもんだな。やっぱり大切なのは語学力より声の大きさと面の皮の厚さだ。

 一大事業を成し遂げたような気持ちに浸っていた我々の左隣のテーブルに一人の中国人女性が着席した。中国の富裕層だろうか、一目でハイブランドの品だと分かる高級な仕立ての服に身を包んだモデルのようなその女性は、流れるような動作でサングラスを外すと、これまた流れるような英語でボーイに注文をした。流暢すぎて一言も聞き取れない。こんな人と私達の様な下々の民が同じ店のテーブルについてるんだから、人生の巡り合わせって不思議なものだ。

 胸を高鳴らせつつ待つこと十数分、ようやく私たちのテーブルに熱々の鍋に入ったチリクラブが到着した。チリというからもっと赤々としたソースかと思っていたが、思いのほか色は薄い。どことなくマイルドそうだ。

 さっそくカニの足を一つ取ると、テーブルに備え付けられているピッキング七つ道具のような器具を手に取り、苦労しつつもカニの身を出す。カニは身がとりやすいようにあらかじめ亀裂が入れてあるのだが、この時点でもう手はソースでベトベトだ。いちいち拭いていてはキリがない。ベトベトの手には構わずに、ようやく取り出せたカニの身をさらにソースにつけ口に入れる。

 抜群に美味しい。  


 今まで旅先で期待して現地料理を食べる度想像の中で勝手にハードルを上げてしまい、むしろ食べた時には軽く落胆してしまうような事すらしばしばあったのだが、このチリクラブは例外だ。高すぎる想像をさらに上回った。それどころか、正直人生で食べた料理の中でも指折りの美味しさだ。

 さっきまで生きていたというこのカニの身も本当に新鮮でたまらなく美味しいのだが、なによりソースが絶品だった。あんかけのように若干とろみのあるソースは見た目に反してかなり辛く、一口ごとに水を飲みたくなるほどだが、とにかくべらぼうに美味しい。食べた瞬間汗が吹き出るような強烈な辛さが舌にくるが同じくらい強烈で濃厚なうまみも舌にくる。このうまみって一体なんだ。カニのエキス的なものが染み渡っているのか。貧乏舌の自分には味の発生源すら分からない。  ともあれそんなソースに茹でたてのカニを好きにつけて食べるのだから、それはもう美味しいに決まっている。ひたすらに美味しい。辛いものが苦手な友人ですら、涙目になりながらも手を止められないでいる。私の所得が高ければ、このチリクラブを食べるためだけにシンガポールに年に数回は来るだろう。

 箸休めに揚げパンを手にする。バターロールの半分ほどの大きさのこのパンは、四角い形に溶かした砂糖でコーティングでもされたかのようなつるりとした光沢をたたえており、パンというよりは一口サイズのハニーディップドーナッツのようだ。ちょうど作りたてなのか熱々のなめらかな外の生地はパリっと焼けており、手で引き裂くとパリパリと軽やかな音をたてる。中の生地はもちもちで、少しだけ甘みのあるその生地をチリソースにつけて食べるとこれがまたたまらなく合う。  
 語彙の少ない者同士、友人とひたすら「うん、美味しい」という言葉のラリーを繰り返し、一心不乱にチリクラブに手を伸ばしていたところ、追加のチャーハンもテーブルに現れた。改めて書くまでもないが当然のように美味しい。適度な薄味で仕上げてあるため味の濃いチリクラブと絶妙なバランスを生み出しており、単品でも十二分に美味しいのだが、余ったチリクラブのソースにカニの身をほぐしたものをいれ、あんかけチャーハンとして食べたときなどはもう、もんどりうつかと思うほどだった。

 ことごとく期待を上回る逸品を提供され、笑顔しか浮かべられなくなった私たちが半分ほどカニやチャーハンを食べ終わった頃、最後の一品、ココナッツジュースが到着した。  
「わぁ・・・!」  
 私たちは思わず歓声をあげた。これまた想像以上!ココナッツジュースはなんとココナッツの実のまま提供されてきたのだ。両手で球を作ったくらいの大きさのココナッツの実は上から数センチほどを地面と水平にすぱっと切り込みを入れられており、その隙間にストローがさしてある。  

 凄い!なんて南国らしいんだ!ココナッツなんてはじめて見た!私たちのミーハー心が求めているものを軽々と超えて提供してくれるだなんて!この店はなんて素晴らしいの!期待と喜びで胸が張り裂けそうだ。

 結論からいうとココナッツジュースと中華料理は恐ろしく合わない。  
 「ああ、なんかこれ。昔ガジガジかじったサトウキビに似てるわ。」
 「甘い樹液だね。植物の汁、飲んでる感じがする。」
 私達が会話で決して「うまい」との単語を発さないことからも分かる通り、ココナッツジュースはココナッツの汁といった方が良いような味だった。  
 少しは気分を変えようと、ココナッツの蓋をとり、中身の白い果実の部分をスプーンですくい口に入れる。果肉はナタデココの様な瑞々しさのある美しい白で、きっと市販のナタデココヨーグルトゼリーのような味だと思っていたのだが、無味無臭のぶよぶよとした味だった。  
 「ねぇ!ほら!この中身!真っ白!ココナッツが食べれるよ!」  
 一人だけ不味い思いをするのもしゃくなので、向かいに座る友人にもしきりに勧める。  見た目だけはとびきり美しいその果肉にいたく興味をそそられたらしい友人は蓋を取って食べようとするも、友人のココナッツは蓋となる部分の切断が甘かったのか、しっかりくっついてしまっておりスプーンですくう隙間がない。仕方なく手で蓋をちぎろうとしているが、繊維がしっかりしているのかなかなかちぎれない。  
 まさか諦めるんじゃないだろうな。被害者が自分ひとりになる事を恐れた私は「せっかくの一生に一度の機会にココナッツを食べれないなんて!」と友人を煽りたてる事に専念した。その事を今でも後悔している。  
 友人が力を込めてココナッツのふたを引きちぎろうとしたその瞬間、あまりの力に耐えかねたココナッツのふたが友人の手から弾けとび、あろうことか隣のハイブランドお姉さんの額に激突したのだ。  
 突然の出来事に友人もお姉さんも呆然としていた。友人は不意に手元から消えたココナッツの蓋を見失い呆気にとられていたし、お姉さんはデコに瞬間移動もかくやという勢いでぶつかってきた木の破片のようなものにひたすら困惑していた。  
 けれども私の席からは一連の流れが完全に見渡せていた。視界の右側にあったはずのココナッツの殻が、なぜ今左端にあるのか。その意味を知っていた。  
 中国語さえ堪能なら困惑するお姉さんに「それは私の友人がゴリラばりの怪力で引きちぎったココナッツの蓋です。あまりの力に勢いそのままに友人の手からすっぽ抜けフリスビーのように飛来した挙げ句、あなたの額に激突したのです。本当にすみません。」と心を込めて謝罪するのだが、そんなことはできない。今できるのは友人をつついて、「ちょっと・・・!」とお姉さんの方を向かせる事だけだ。  
 隣の席のお姉さんを見た友人は、お姉さんのテーブル上にある見慣れたココナッツの蓋と額をおさえながら怪訝そうな表情を浮かべるお姉さんを目にし、即座に状況を理解した。  
 「すみません!ソーリー!!」  
 反射的に立ち上がるや、凄い勢いで頭を下げ全力で謝る友人。  
 「オーゥ!ジャパニーズDOGEZA!サムライネー!ハラキリネー!」  
 一方直接的には何の関与もしていない私は、これからお姉さんが喋ることを勝手に脳内アフレコし楽しんでいた。一応友人にあわせてすまなそうな表情を作ってはいるが、完全に高見の見物だ。  
 私の期待とは裏腹に、友人からの熱烈謝罪を受けたお姉さんは「オーゥ!ベラベラベラベラべラ!オーケ!」と笑顔で応じていた。途中の言葉は一言も分からなかったが、文末がオーケーであるあたり、どうやら許しを得たようだ。笑顔というより苦笑に近かったが、それはもう仕方ないだろう。顔面にココナッツを叩きつけられた直後に相手に対して満面の笑みを浮かべるだなんて、マザーテレサでも不可能だ。  
 許しを得た友人は、その後何度か「ソーリー」を連呼すると、ようやく席に着いた。目の前には蓋が完全に消失したココナッツがある。多大な犠牲をはらったその果肉をおもむろにスプーンですくい口に運んだ友人は、一瞬「こいつ、かつぎやがったな。」という表情をしたが、それを口には出さなかった。ココナッツの不味さ以前に、先ほどのゴリラ腕力ココナッツ事件の衝撃から未だに立ち直れていないのだ。
 「・・・やっぱりさぁ、言葉って分からなくても、気持ちは伝わるものだと思ったわ・・・。」
 長い沈黙の後、無味無臭のぶよぶよココナッツを無表情で噛みしめながら友人がそう口にした。  
 「いや、ほんとにね。すごい気持ち伝わってたと思うよ。こいつめっちゃ謝ってるなって思ったもん。すげぇ謝ってるって。」  
 自らのハラキリアフレコは心にしまい、しみじみと友人に同意した。
 気づけば日はもうすっかり落ち、私たちはココナッツ以外のすべてをペロリと平らげていた。

 「チェック!プリーズ!」  
 相変わらずのカタカナ英語でボーイを呼び会計をすますとちゃっかりお土産用のチリソースまで買い、私たちは再び夜の街並みを歩きだした。
 目的地はもちろん言うまでもない。こんなに気持ちのいい夜に、目と鼻の先に輝くカジノがあるってのに他にどこに向かうというのだ。

 マリーナベイサンズは夜空を泳ぐ鯨のように輝いている。

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