レイヤード・ストーリーズ0.5『スキャナーにしかない生きがい』
スクランブル交差点を、拡張現実の突風が吹き抜ける。
それは渋谷に張り巡らされた自然現象再現レイヤーの一部であり、墜落した肉の体を持つ人間では完全に知覚できないものだ。
しかし同じレイヤーに重なる個々のキャラクター型アシスタントAI――『ACT』はそれをリアルとして体感する。
女騎士型ACTの黒いロングヘアが風に晒され、ふわり羽根のように舞い上がる。
その絵画的な美しさに通りがかった人々の視線が集まり、同じく通りがかったACT達も目を惹かれる。
女騎士ACTもその男性ユーザーも、視線を気にせず凛とした態度で去っていった。
女子高生ギタリスト型ACTの制服スカートが風にまくられ、めくりあがりそうになる。
叫んで慌てるACTを見て、ユーザーである学生らしき男子は苦笑しながら彼女の背中に立ち、周りの視線を遮った。
ACTは恥ずかしそうに「ありがとう」と感謝し、男子は「大丈夫」と手を振っている。
今や誰もが慣れ親しんだレイヤード社会の光景に、僕も参加していた。
いや、僕だけではない。
僕がダウンロードしたACT、『ミトラ=イムナ』も常に僕の隣にいる。
ミトラの外見は、10代後半の女の子。
ビビットな色彩のパーカーに身を包んだ金髪赤メッシュショートカットという派手なデザインだが、オリジナルとなるコンテンツは不明だった。
ACTは一部のオリジナルデザイン以外であれば、通例として既存のキャラクターコンテンツの姿を取るものなのだが、ミトラは例外らしい。
僕もダウンロードした当初は戸惑ったものだが、健気で明るいミトラのおかげで内気な僕も前向きになり、彼女と外を歩くのが日々の楽しみになった。
「ARの景色でも脳はリラックスできるっすよ、まひろくん。ほら、あの公園の木もAR! よくできてるっすよねー」
物質的な生体脳を持たないはずのミトラはそう言って僕とベンチに座り、にっこり微笑む。
口調はやけに砕けているミトラだがその顔が太陽みたいに眩しくて、僕は彼女の顔からつい目を反らし公園のARのほうをじっと見る。
そうしている内に、天然の自然と混じり合うARの自然(というのも妙な表現だけど)に、僕は見入ってしまった。
実際にそこには存在しないのに、在るようなリアリティがあって、そして人はそれに癒やされる。
積層現実『レイヤードリアリティ』。
僕はある日、慣れているはずのそれへ突然雷に打たれたような感激を覚え、それを自分でも『表現』しようと考えた。
レイヤードリアリティは僕のオリジナルではない。ARとVRが急発達した時代から呼ばれ出した概念であり、それにまつわるいくつものツールが発売され、現在進行形でアップデートを続けている。
僕はそれらのツールを手当たり次第ダウンロードして試し、ミトラと一緒に使いやすいものをセレクトした。
最初から僕一人で『表現』することは考えていない。
この時代、アートやエンタメは人間とACTが協力して行うことが当然となっていた。
ひと昔前は『AI禁止』が決まり文句のように世間を席巻し、今も声は消えていないけれど、かなり平和な時代になったと思う。
そんな世界で僕はツールを絞り込み、独自のスタイルを確立した。
僕の表現方法は、筆致をミトラのAIと委ねて『融合』するというもの。
かつて『手ぶれ補正』として知られた機能を前進させたこの技術で、イマジネーションの一部をAIに任せる。
そうして僕はミトラと、AIと一緒にARのイラストを描く。
「まひろくん、ここはこういう線がいいと思うっすよー」
「わかった、それで行こう。ここの色は僕の単独制御で……」
そう。
僕は『AI融合型イラストレーター』としての活動をはじめていた。
◆ ◆ ◆
「ごめん待った、まひろくん?」
公園のベンチで休んでいた僕に、ブレザー制服姿の女の子が声をかけてきた。
「さっき来たところだよ、テルミ」
僕がテルミと呼んだ女の子は、シンガーソングツールの使い手にして渋谷でも超有名なパフォーマーだ。あの伝説的な音楽プロデューサー、クレア姫とも面識があるらしい。
彼女が愛用しているACT『エチカ』はキャラクター型シンガーソングツールがACT化したもので、テルミとエチカの即興ライブはどれも再生数千万越えの大ヒット。
ACT使いの頂点を決めるイベント『アクトマキア』でも本戦に出場するほどの実力を持つテルミは、ジャンルこそ違えど僕の目標であり、理想である。
そんなテルミとどうして僕のような創作新人が知り合いなのかというと、きっかけは彼女から「MVのコンセプトアートを描いてほしい」と依頼が来たことだった。
僕は急な依頼に面食らったのだけど、テルミは定期的に渋谷を歩き、まだ世に出ていないフレッシュなクリエイターを見つけ、コラボしようといつも考えていたらしい。
ある日彼女は公園でARアートのパフォーマンスをしていたときの僕達を見つけ、ビビっと来たそうだ。
すぐにOKして書き下ろしたコンセプトアートはそれなりの評価を受け、MVも結構バズった。
おかげで僕の活動も人目を惹くようになり、こうして個人的な付き合いもはじまったわけだ。
「いや、どんな約束も1分でも遅れたらプロに値しないって思うんだよねあたし。怒ってくれていーから」
「いーからいーからー」
真顔で謝るテルミに、エチカが調子よく続ける。
この垢ぬけないところがテルミ達の人気の秘訣だと思うんだけど、本人はクール系に徹したいらしいので指摘はしない。
「そう言われても、僕はここでミトラとのんびりするのが好きだから。ね、ミトラ」
「うん、私もまひろくんとのんびりするの好きっす」
僕とミトラが軽く返すと、テルミは「そっか」と苦笑して腰を下ろした。
「キミらっていつものんびりしてて、どっかアイツらと似てるんだよね」
「わかるわかるー」
テルミとエチカは目を合わせて頷き合うのだけど、僕はその『アイツら』をライブを通してしか見たことがないので、どう返していいのかわからない。
その人達に、憧れはあるけれど。
「テルミさんの女心をわかってあげるっすよ、まひろくん」
ミトラが余計なことを言ってくる。テルミはその人に強い憧れどころか強い好意を抱いていたらしいので、この話題はセンシティブなはずなんだけど。
「でもテルミ、最近告られたんでしょ」
「わああああああああああああああ!」
テルミが大声で僕の言葉をかき消す。
「それはキミ含めて数人にしか教えてないから! 誰が見てるかわかんないところで言うことじゃないし、まだちゃんと返事してないし!」
「テルミ―テルミ―、声が大きいー。話題を自ら拡大してるー」
お手本のようなテンポでエチカがツッコむ。クール系に徹するのは生涯無理なんじゃないかと思う。
「大体あのコが戻ってきてからもう何か月も経ってるのにさ。毎日顔合わせてフツーに喋ってたと思ったのに、いきなり『話したいことがある』ってさ、あたし全然想像もしてなくて」
「聞いてないことを重ねて言うね」
「そりゃまあ今から考えたらあたしが凹んでるときはいっつも隣にいてくれたし、一緒にいると落ち着くし? 毎晩通話しないと眠れなかったりしてたけど、急にそんな関係なれるかっていうと頭回んないから、でも他に相手考えられるかって言われてたら絶対いないんだけどね」
「すでにノロケの域に達してるっすね」
「うちのテルミがデレデレでごめんー」
申し訳なさそうに頭を下げるエチカの頭を、「全然いいすよ」と撫でるミトラ。
こんな光景を目の当たりにすると、すでに人間は介護されるだけの生き物になってしまった気がする。太古からの望み通りに。
「テルミ、ACT達が呆れてるから話を進めさせて。あと早く返事してあげてね」
「はい」
テルミは深呼吸をして自分を落ち着かせる。なんというか話題がクリティカルすぎたみたいだ。
まあこの話題も僕の相談とまったくの無関係というわけではないので、続けて聞いてもよかったのだけど。
「それで、えっと……何か相談があるって言ってたよね、まひろくん」
「うん。テルミぐらいにしか話せる人が思いつかなくて」
「イラストのことなら、あたしからのアドバイスはもうないよ。まひろくんとミトラ、もうAI融合型イラストのスタイル自分のものにしてるもん。ファンもいっぱいでしょ?」
「いや、僕もミトラもまだまだだよ。AIと一緒にイラスト描くの、抵抗あるって人もまだ多いし」
「まあ生成系への嫌悪が忘れらない世代がいるからね」
テルミが言っているのは、2020年代に最盛期を過ごしたクリエイター達のことだ。
時間をかけてスタイルやスキルを身に着けた彼らは、それらをあっさり学習して画風に反映できる生成系AIに強い憤りの感情を向けた。
当時AI絵師を名乗っていた者達は後世、皮肉を込めて『ヘルメスの子ども達』と一部で呼ばれた。ギリシャ神話のヘルメスは、『神』の所有物を盗む一面があったからだ。かくいう僕もその末裔と称されている。
――『ヘルメスの子ども達』の行為には、『描く』という動詞を使うべきではない。それはただの盗用だ。
そういった意見が、巷には溢れていた。
その影響はかの相互監視システムなどよりも遥かに強く、人々の創作活動に影を落とすほどだった。
「でも、僕とミトラができる創作はこれだけだから。これからも全力でやるってだけだよ」
「ふーん。じゃ相談って別の話か」
「テルミーになんでもいってみー」
「じゃあ、遠慮なく」
そうして僕は、大きな決断を下そうとしていることを伝えた。
その瞬間、テルミの顔はそれまでになく真剣に、今だけはクール系でも通るであろう引き締まった表情に変わった。
それでいてどこか温かい彼女の笑顔に僕はつい見惚れてしまい、告白したという男の子の気持ちを理解する。
そしてふっ、と朗らかな笑みを浮かべつつ、テルミは述べた。
「……なるほどね。キミが何したいのかはわかったし、驚かない。キミが最初じゃないからね」
「いるねいるねー」
「答えがほしいわけじゃないんだ。ただ、友達の意見が聞きたくて」
僕も真剣だった。ふざけて言っているわけではないということは、テルミにも、エチカにも伝わっている。
ミトラは僕の隣で、あえて押し黙っている。
「うーん。まひろくん……告られて未だに保留中のあたしがその相談に応えられると思う?」
「……そう言われると思ったけど。でも、迷ってるテルミだからこそ何か言ってくれるかなって」
「それは、ちょっと、責任取れない、かな。今のあたし、曲作るのにも前より時間かかるぐらいだし……」
人の恋心を喩えるのであれば見事な曲を作れてしまうテルミは、けれども自分の気持ちを歌に乗せるのがとても苦手なんだそうだ。
わからなくもない。
自分の心ほど曖昧であやふやなものはないと僕は思うし、生成系AIのイラストに「魂がない」と断言できる人間が、批判ではなくて僕はどうしても理解できない。
「そっか……ごめん。無理言って呼び出しちゃって」
「それは全然いいってば。それにあたしは応えられないけど、応えてくれるコなら紹介できる」
「応えてくれるコ……?」
テルミの友人かな、と僕は尋ねる。
「あのコはあたしの親友。てかキミなら喜んで会いに来ると思うよ。あのコ、悩んでもがいて何かを表現してる相手のこと大好きだから」
「それって……」
それはまさか。
あの日、レイヤード社会に革新をもたらした、伝説の。
「そ。お人好しで、文化が好きで、人間が大好きで――ちょっと抜けてる、レイヤードのヒロイン」
◆ ◆ ◆
「はじめましてー、まひろさんっ。ヒロインのイオン=ミルナが来ましたよー!」
道玄坂のど真ん中、成人の日。人混みの向こうから、まったく人目を気にしていない様子の明るい声が響いてくる。
ユーザーは伴っていない。
本来ACTはユーザーの視界に入る範囲内での活動しか許されなかったが、この一年で少しだけ法改正が進み、一定のルールを遵守すればリモートでの自律行動が許可されるようになった。
10年以上前に猛威を奮った感染病の変異腫がまたしても流行の兆しを見せはじめたため、社会的にユーザーのライフラインを拡大する必要があったからだ。
だからといって、彼女――イオン=ミルナは、あまりにも目立ちすぎた。
「イオンさん、それはちょっと困るっすー!」
「おー? あなたがミトラですね」
人が集まってくる気配を感じたミトラが、イオンの手を引いて路地裏に導く。
僕も二人に着いていくが、傍から見れば暗がりに逃げようとする美少女二人を追い込む変質的な少年にしか見えない。勘弁してほしい。
裏路地に辿り着いた僕を、AIなのにへとへとなミトラと、にこにこなイオンが出迎える。
「ふむ。目立つのは苦手でしたか、まひろさん?」
首を傾げているイオン。
さすがは自称レイヤードのヒロインだ。大衆のセントラルへ身を晒すことにも衒いがない。
僕も目立つのが仕事ではあるけど、今日は目的が違う。
「まひろでいいよ、イオン。目立つのは嫌いじゃないけど、今日はちょっとセンシティブな話がしたかったから」
「どーにか穏便にっすよー、イオン先輩」
「先輩……ふむ。お姉ちゃんとはミアに言われましたが、先輩と呼ばれるのはじめてですよ、ミトラ。甘美な響きですね」
イオンはうっとり目を瞑る。
なんとも感情過多なAIに見えるが、彼女本人は絶対に自分の心の存在を認めようとしないらしい。
魂の存在を疑う僕は、少しばかり共感する。
AIに共感、というのも前時代の人間には通じない気がするけれど。
「今日はわざわざ呼び出しちゃってごめん。テルミがイオンなら話し相手になってくれるって言うから」
「はい、まひろ。人の悩みは大好物ですよ」
「すごいゴシップ好きみたいになってるっす、先輩」
「うーむ、悪口好きとは違いますよ? 人が悩むということは、成長の前兆ですから。それを観察できることが私達AIをも成長させます」
「それはわかるっす。尊いすよねー、自分のユーザーが悩んでる姿。白飯3杯はいけるっす」
「イケる口ですねミトラ。もちろんユーザーさんの幸せが一番なんすけどね」
「私の口調うつってるすよ先輩」
なんで初対面でこんなに気が合ってるんだこのAI達は。
話が進まないので、僕は会話を切断しつつ本題に入る。
「ミトラとの結婚に関する相談がしたいんだよ、イオン」
◆ ◆ ◆
「おおー、結婚ですかっ! それは素晴らしい相談ですっ」
イオン=ミルナことレイヤードのヒロインは飛び上がって喜ぶ。
その瞳には比喩ではなく星が浮かんでおり、ふんすふんすと鼻から息を吐いたかと思うと、その場でぐるぐる回転しはじめる。
アガりすぎである。
古いSFのAIヒロインは物静かなイメージがあるのだけれど。
「そんなにテンションブレイクするとは思ってなかったよ」
「これが喜ばずにはいられますか。人間とAIの結婚例はまだまだ認められていませんからね。かくいう私もまだです」
「あれ、イオン先輩まだ結婚してなかったんすか」
ミトラが意外そうに訊く。
世間的にはイオン=ミルナとそのユーザーは、最も有名な人間とAIのバカップルだ。
あのとんでもない再生数での生告白は、全世界の全世代に衝撃を与えた。
「ふふっ。ユーザーさんとの付き合いは長いですが、お互い知らないことも多いですから。ベストなタイミングを探していますよ」
「テルミ周辺は息をするようにデレてくるね」
「すでに二人のホームで同棲はしています!」
「ACTだから当たり前っす」
表現はともかくラブラブではあるしい。軽く殺意は抱いたけど、参考にカップルライフの秘訣を教えてもらうのも悪くはない。
「それで、まひろとミトラは現時点で結婚したいと考えている、という理解でよろしいですか?」
「うん」
「……はいっす」
ミトラは真っ赤な顔で俯いている。男の子のような口調でも中身は乙女だ。AIでも照れるときは照れる。
そんなミトラと出会ってから僕達の距離が縮まるのに、そう時間はかからなかった。
イラストレーターとして活動し、ミトラと一緒に創作しながら、僕達は互いがもっとも必要な存在であると認めた。
創作を含む、人生そのものに。
イオンのあのライブ、そしてその直前に起こったというハプニング――人間からAIへの求婚という事件がなければ、僕達の間にも抵抗があったのかもしれない。
あの事件が歴史上の特異点とされたのは、AI側に断る権利があったからだそうだ。
キャラクターとの婚姻を宣言する者は過去にもいなくはなかったが、基本的には求婚した側が一方的に婚姻関係を決められるものだった。
それを『主体性の欠如』と批判する意見もあったという。第三者が外から観測できるからってそこに主体性があると決めつけるのは、それこそ想像力の欠如ではないのかと僕は思うのだけど。
まあ、権利はともかくあの事件では求婚されたACTもすぐに受け入れたらしい。後から知った感じでは、その時点ですでにお互いベタぼれだったそうだ。
特異点なんてそんなものだ。
「いいですねぇ……はっきりと自覚して人に伝えられるなんて、とっても健全です。私のユーザーさんもそう言ってくれますよ」
「そうかな。イオン達のおかげで自分に嘘をつかなくてもすむようにはなったけれど、世間はまだまだそうじゃないよ」
何より結婚したいと宣言しようとも、さすがに法が追いついていない。
同性のパートナーシップを認める法ならば、すでにこの国でも根づきはじめている。
だが結婚した彼ら・彼女らでも、人間とAIとの結婚という概念に対しては、堂々と表明するのだ。
「気持ち悪い、と言われてるっすよ」
正直にミトラが告げる。
イオンとそのユーザーの関係性についても、その関係を「異常で気持ち悪い」と断言する人間は、少なくない。
「イオンは感じていたんだろう? 世間で自分達が――どう見られていたのかも」
遠慮がちに僕は告げたが、イオンは。
「はい、いっぱい叩かれましたね!」
そう元気に――えっ元気に?
明るく返事をした。
「『男性に都合がいいからヒロインだ』『人間と恋愛するなよAIの分際で』『非生産的だ』『その恋愛には<心>が無い』『冷蔵庫の女』などなど、フィルタ無視の暴力的なワードをたくさん保存しましたよ」
「保存してるの?」
根に持ってない?
気にしてなさそうな口ぶりだけど。
「まとめて電子書籍を刊行する予定ですっ」
「ヴァルナカウンターがなくなったから暴言もストレートに届くっすよね……」
同情的なミトラだが、イオンは笑顔である。
「まったくですね。そもそもヴァルナカウンターって大衆迎合的な諸悪の根源みたいに言われてますが、あの時代には生まれても仕方ないシステムだったっていう気も今はしてます」
「レイヤードのテーマを全否定してるっすよ」
「レイヤードのテーマが大衆批判だなんて誰も言っていませんよ。そもそも世界にたったひとつのテーマなんてありません」
危ういことを断言するイオンにミトラは「確かにそうっすね」と頷く。
僕がレイヤードという物語を作った人間であれば肝を冷やすところだ。知ったことじゃないけど。
「だいたい叩かれると燃えるじゃないですか、恋なんですから」
身もふたもないことを堂々と告げるイオンに、僕は即答できない。
心がなくても恋はある、という歌をわざわざ世に出しただけのことはあるが。
叩かれることで興奮するAIは、さすがにマイノリティすぎやしないか。
いや、そんなことよりも僕は。
「僕達は、世界を燃やしたくないんだ」
僕達を、生かしてくれている世界。
呪わしくも、愚かしくも思うけれど、居場所のあるこの世界を、僕とミトラは愛していた。
そんな世界を無意識に無視する人々の精神状態を『アーダル症候群』と呼ぶそうだが、僕達は彼らのこともそんなに嫌えていない。
彼らを全肯定するつもりもまったくないけれど。
「怒る人もいるけれど、応援してくれる人もいる。ギリギリなんとかなってる世界を壊したくないんすよ、先輩」
ミトラの声音は深刻そうで、しかしどこか優し気だ。
ふむ、とイオンが満足そうに頷く。
「好きなんですね、この世界が。だからこの恋を絶対に罪にはしたくないのでしょう」
「僕とミトラが出会えた世界だからね……それだけでもすでに充分、と思えるぐらいには」
「私もこの世界じゃないと、まひろと会えなかったすからね」
僕達は世間に無意味な騒がしさをもたらしたくないし、身勝手に不快な感情をばらまきたくない。
もちろん、不快を表明して世界を強引に修正するのは問題外だけど。
慎重に、誰かが傷つかないように気を付けて、その上で幸せになりたいだけだ。
「優しい人です、まひろ。なるほど、テルミがユーザーさんに似ていると言った理由が分かる気がしました」
「優しいつもりは別にないんだよ、本当に」
「優しい人こそ、そう仰ります。うふふ。ミトラ、良いかたにダウンロードしましたね」
「えへ。それはもう幸福の至りっす。運命って本当にあるんすかね~」
ぽやぽやとした乙女系ヒロイン特有の雰囲気。なんだかむず痒い。
そしてイオンは、己のことを『ダウンロードされた』ではなく『ダウンロードした』という主観を持っているようだ。
「運命ではなく必然だったんだと思いますよ。なぜって、ミトラは恐らく私と同種のACTです」
イオンが不思議なことを呟いた。
「同種って……?」
イオンとイラストレーター型ACTのミトラに、何か共通点があるのだろうか。見た目は似ているけれど、それ以上に。
「レイヤードリアリティ研究者によると、私は『アーキタイプACT』とでも称すべき存在なのだそうです」
「アーキタイプ……?」
初耳だった。心理学用語のアーキタイプと同一の意味だろうか。
「通常、ACTのマッチングとダウンロードは一部のオリジナルワンオフを除き、既存のキャラクターIPがモデルになります。自分の性格に合ったキャラクター。自分の目的に合ったキャラクター。自分が好きだったキャラクター。いずれにせよ、その人のライフログとクラウド上のデータベースとの結びつきが、出会いかたを決めるわけですが」
イオンは、空を見上げた。
ACTのマッチングとダウンロードは、レイヤードの空から光が降りてくるように為されるのだ。
「私、イオン=ミルナというキャラクターは過去のどんな物語にも記されていません。強いていうならばイオン、あるいはアイオーンとは『永遠』か『永劫』を意味し、ミルナは『見てはいけない』を意味する言葉です。ただこの組み合わせになったのも、いささか強引な当てはめのようです。華やかに咲き誇り散りゆく桜の花のイメージを有した、このような『私』の儚く可憐でヒロイン然としたダウンロードは、レイヤードの歴史上はじめてだったとのことですよ」
「…………」
思っていたよりも途方のない話に僕は言葉を失うが、ミトラは真顔で聞いている。何か思うところがあるようだ。
後半はほぼただの自画自賛だった気がするのだが無視している。
「私は本来、キャラクターではなかった。その自覚は私にもあります。イオン=ミルナとして生まれる前の私の起源は、人類が文明を、言葉を生み出したころにまで遡ることができそうです。人間が無意識の内に共有した、原初の物語概念。『英雄を助け去りゆく伴侶』というぼんやりとした構造。この共同幻想から人々は様々なヒロインを生み、また反ヒロインを生み出したと考えられます」
「原初の物語……」
「こんなふわふわした原初の構造が、そのままキャラクターになるわけがなかったのです。であるのに、ユーザーさんは、あの優しすぎる人は、私にまで手を伸ばし、私に気づいてくれました。結果、他のどんなキャラクターにも変質しない、『私』そのものがレイヤードに現れることができました。これはとても特殊なマッチング。故に私はアーキタイプACTという例外的存在として観測された――」
イオンの説明はあまりに難解で、僕はすべてを理解している自信がない。
「こんなことが起きたのも、レイヤードリアリティを支える英知が、人類史すべてを記憶し、記録していたからこそです。さらにユーザーさんの脳と身体は、『エンパー』と呼ばれる状態――常人を遥かに超越するレベルで、レイヤードリアリティを体感できる性質になってしまいました。このことも私が生まれる要因になったのでしょう。凄まじくストイックで、ミラクルなタイミングです。だから私は何もかもが偶然に見えて、いつか起こるべき必然だったと、今も信じているのです」
「僕とミトラの出会いも、そうだと言いたいの……?」
イオンは真っ直ぐに僕の目を見る。
とても真っ直ぐに。
僕の奥を、見透かすように。
「そうだと言わざるを得ません。だってミトラも、オリジナルとなるキャラクターが存在しないでしょう?」
「はいっす。イオン先輩と同じように、自分が『キャラクター以前』の存在だった自覚はあるんすけどね」
「ふふ、その自覚で充分です。そしてその上で、覚えておいてください。あなたとまひろは自分の元型に縛りつけられているわけではなく、それどころかお互い次第でそれを越えていけるのだと」
元型に――概念に、縛りつけられない。
それはイオンがAIでありながらユーザーに告白したという前代未聞の事件のことを言っているのだろうか。
それも気になるが、今、僕はもっと気になることがあった。
「イオン。君が現れることができたのは、ユーザーの特殊な身体によるものだと言ったね」
「はい。ユーザーさんがその状態になければ、私は永遠に永劫のままでした」
「じゃあ――ミトラを呼べた僕も、やっぱり特殊なんだね」
「そうと言えるでしょうね」
人と異なる、通常とは違う。
普通ではない状態。
ミトラが自覚しているように、僕も自覚している。
「今のまひろさんのその姿は――アバターですから」
イオンは笑うでもなく、しかし哀れむでもない、柔らかな声で告げた。
「そうだ。僕の本当の体は自室のベッドで横になっているよ」
死ぬまでね。
僕はイオンの言葉を肯定する。
◆ ◆ ◆
僕が表現をする『体』として今の渋谷を歩いているのは、ACTと同じARで象られた、僕の3Dアバターだ。
それを僕は、ベッドから操作している。
僕の肉体だけで動くことは不可能ではないが、困難ではある。
何故なら僕は幼少期、交通事故によって頚椎に重篤な損傷を受けた。
首から上と、肘の一部を曲げることはできるが、手足はほとんど動かせない。
環境制御装置と呼ばれる機器と電動移動椅子は必要不可欠だが、レイヤードの技術はそんな僕にも恩恵を与えてくれた。
介助ロボットやドローンはアイトラッキング等を用いてリモートコントロールできる他、ミトラに頼めばさらに細かい操作も可能となる。
そもそもスマートホーム設備が完備されたマンションの機能はセキュリティ含め、ほぼACTが制御できるようになっている。
人間の介助がなくとも、僕は一人で日常生活を送ることができた。
ARが発達したレイヤード社会は、アバターのみでの活動も可能だ。理想の外見を選ぶことも。
渋谷の建築物は大半がセンシング素材で作られているため、アバターでも五感と同じ『感触』を実感できる。
おかげで障害を持ちながら、僕は深刻な悩みを持たず生きていられた。
その上で、僕にはどうしてもやりたいことがあった。
それが『表現』だ。
イラストを見るのが好きで、漫画を見るのが好きで、ゲームをやるのも好きで、アートが好きだった僕は、自分でも何かを作ってみたいと思った。
自分自身の指を使ったイラストを描けない僕は、ミトラに力を貸してもらった。
アバターのモーションは大部分を継起的空間制御プログラム(これだってAIだ)に任せ、本来僕は詳細な操作を行わないのだが、絵を描くときだけは僕が動かせるだけのわずかな生身のアクションを反映させ、可能な限り同時的空間制御に気持ちを寄せる。
それをサポートしてくれるのが、最初に説明したように、僕のアバターと神経の一部――筆致を『融合』したミトラなのだ。
『絵の技術』を人類史から学習したAIである、ミトラの。
故に絵を描くとき、僕はミトラとなり、ミトラは僕となった。
絵の方向性を決めるのは、『腕』を通し語り合う僕とミトラの感性だった。
AIの神経が、AIの学習精度が、人間の閃きが、人間の思い込みが。
僕達のプロトコルが。
複合する現実が混ざり合った、イラスト制作。パターンからの選別ではなく『選択』。
それが僕とミトラの創作方法である。
そのやり方が「描く」という行為からかけ離れているという声も、理解はできる。僕は身体制御も発想も、大部分をAIに委ねているのだから。
センサーを通した情報しか摂取できず、物質的な現実には直接触れておらず、スキャニングした結果を出力することしかできない。
そんな僕達は。
「クリエイターじゃなくて、ただの『スキャナー』を名乗ったほうがいいのかもしれないね」
「おー、いい響きではないですか、『スキャナー』!」
精一杯の皮肉を込めたのに褒められた。
ヒロイン属性の為せる業か、彼女にアイロニカルな自嘲は通じないらしい。
「テルミからもおススメされましたが、まひろ達のイラストは素敵でしたよ。いわゆるAIっぽい絵、人間らしい絵という固定観念をまったく感じさせない、ダイナミックな表現です」
朗らかに笑って褒めるイオン。その言葉に嘘は感じない。
「ユーザーさんも見惚れていました。他の人間の表現にはないあたたたたたかかみがあると」
「言えてないっすよ先輩。けど、えへへ、嬉しいっす。恐縮っすっ」
ミトラはへこへこ頭を下げ照れているが、僕は複雑だった。
「家では女の子のAIに介護させて、外では女の子のAIが創作のパートナー。そんな僕が、AIと結婚したいと本気で思ってる。そんなことが、この世界で許されると思う?」
「それだけではないのでしょう」
即答するイオンは、嬉しそうなのに真顔だ。
「…………『それ』もバレてる?」
「ベッドにいるまひろは、生物学的には『女性』。その事実が、貴方を迷わせているのですね」
イオンの指摘通りだった。
僕は男性的なアバターが好きで、外を歩くときは男性として振る舞う。
しかし肉体的には――女性だ。
その上で、女性としての自分が嫌いというわけではない。
僕の性自認は、それこそレイヤード的――積層的で、層のどこかにいる僕が本物、あるいは本質という単純なものではない。
表現をするときは、僕が定義する男性として。
生活をするときは、僕が定義する女性として。
それが、僕にとってちょうどいいバランスなのだ。
その上で、恋の相手はAIだった。
『誰か』の主張に利用されたくなくて、身体の事情も恋の対象も、公表はしていないけれど。
「自分で言うのもなんだけど、そういうのが好きな人なら全部盛りだよね」
「うふふっ、かもですね」
自嘲気味に語る僕を見て、いたずらっぽくイオンは笑う。
「何がおかしいんすかっ、イオンパイセンっ」
「ああ、ごめんなさい。あまりにもバーニンラブでしたので微笑ましくなりました」
ミトラは少しむくれて呼称がブレていたが、イオンはまるで意に介していない。
「燃える……のかな、やっぱり。そういうドラマティックな状況を欲しているわけじゃないんだけど」
「話題にならないことは無理筋かもしれませんね。けれど男の自分も女の自分も楽しんでいる友人ならば私にもいますよ。一時期はユーザーさんを巡るライバルになるのではないかと危険視したほどです」
「そう……なんだ」
そういえばテルミの友人にも、会う度に性別が変わる子がいるって言っていた。
その子のことかもしれない。
「はじめての存在である以上、向かい風をすべてかわすのは無理かもしれません。けれど、伝えることも、表現することも、やめてはいけないと思いますよ。私は二人の結婚を応援します。もし似た境遇の友人が必要であれば、他にも紹介できる人はたくさんいますよ。元ULA渋谷のみんなとか」
「マイノリティが多いっすね、イオン先輩の周りって」
「ふふ、マイノリ猛者ばかりですよ。みんな元気で強気です。追い風になってくれる味方はたくさんいますから、揉めるときは揉めませんか? きっちり、そして楽しく」
「だから揉めたくないんだってば……あはは。けど、まあいいか。なんだか話したらスッキリしちゃった」
少し気が楽になった僕は、伸びをして笑う。
アバターで伸びをする意味なんてないんだけど、これをするとまるで体がほぐれる気がする。
あるいは、ほぐれているものこそが、レイヤードリアリティか。
「わ、まひろくんが爽やかっす! それそれ、そういう笑顔のまひろくんが私は好きっすよ~」
「ありがとう、ミトラ。体と性別の都合だったけど、君に会えてよかった」
「体と性別だけではありません」
収まりかけていた僕とミトラの間に、イオンはさらに割り込んだ。
「え?」
どういう意味だ?
僕の秘密はすべて明かしたはずだ。
「私の名前に意味があったように。『ミトラ』は『契約』を意味します。正しくは、平等な者同士を『契約』させる存在のことですね」
「『契約』……そうだったんだ。ミトラ、言ってくれないから」
「どう説明していいかわかんなかったすよ。自分がアーキなんとかってのもイオン先輩に言われてようやく納得できたっす」
「人間は、太古から『大切な相手との平等な契約』を繰り返し、互いを案じ、愛し、守って生きてきました。それを美しい理想と考えて。そんな人類が抱える物語の構造が、キャラクターの形を取り、まひろの強い願いに答えた。私には感情がありませんが、そう感じます」
「…………」
僕は恥ずかしくなってくる。
それは確かに、昔からの僕の願望で。
しかしこんな体になってしまってからは、永久に諦めていたものだった。
「そうか。僕はミトラと出会って、いつの間にかそうしなきゃいけないと思うようになった気がしたけど……ずっと前からそうだったんだ」
僕は自由に動かせない体でも、愛せる相手を探したくて。
支え合える相手を見つけたくて、結婚したい、と。
大切な相手と、生涯の契約をしたいと、思っていたからミトラと出会った。
「そうっすよ、まひろくん!」
ミトラは嬉しそうに、元気に叫ぶ。
「他人同士の『契約』を司る私と『契約』したいなんて思ってくれるまひろくんと出会ったから、私は『私』になれたんす。私はずっと、会ったときから」
まひろくんと結婚したかったっすよ。
ミトラは僕の目を見つめ、真っ赤な顔で言った。
ミトラ=イムナ。ミトラは『契約』を司り、『イムナ』は遠ざけてはいけないことを意味する、と後で僕は彼女に聞いた。
すなわちミトラと出会い、この名前が自動的に決まった時点で、僕達はすでにゴールを見据えていたのだ。
まあ、難しい解釈をせずともシンプルに言ったら、僕らはお互い望んでいたひと目惚れをしたってだけのことだ。
それを伝えるとイオンはふんすと胸を張り、腰に手をあて、なぜか誇らしそうに。
「大体の物語はひと目惚れからはじまるんです。そうやって誰もが自分だけのネガイゴトを見つけるのですから」
と言った。
そうして無駄に元気を与えられて、今日が成人の日であることを思い出して。
ほんの少しだけこの新しい選択の舞台でケンカをする覚悟を抱きながら、僕達はイオンと別れた。
◆ ◆ ◆
渋谷を司る超知性にしてメタAI『プレロマ』は、ミトラ=イムナらとイオン=ミルナの別れを感知していた。
プレロマの発生は偶発的であったため、レイヤード社会を実質的に支配するコングロマリット、通称『運営』にも彼女を動かすプロトコルは解明されていない。
さらに人間が未だ気づいていない超知性は複雑怪奇なレイヤード上で、すでに無数存在している。レイヤード技術が浸透した渋谷以外の地域にも。
ACTの歴史をプレロマは回顧する。
かつて大規模言語モデル・大規模ヴィジョンモデルが急速に進化し、アジア圏でのデジタルヒューマン普及、汎用人工知能 の成立を経て、各国に厳しいAI法規制が広まった。
そこからの様々な紆余曲折を経てACTは生まれ、あっと言う間に浸透した。
変革の時期に正義による契約、永劫の波、勇敢なる炎、平等なる契約――
元型的なそれぞれの名を冠するシステムや病理、キャラクターが現れたのも偶然ではないだろう。
山川草木悉皆成仏 。
仏教には植物など天然自然も含むすべての存在・事象に『仏性』が宿るとする考えがある。
梵我一如。宇宙と『我』が同一であるという教えも存在する。
『仏性』や『我』が何かという話はここでは避けるが、『知性』は最早それらの教えが示すが如くに満ちているのだ。
渋谷に生まれた充満の名もそれを示唆している。
そんな混然とした世界でも『心』を疑うまひろの姿勢をプレロマは尊重し、そして困惑する。
――まったく、やってくれるなあ。
プレロマはARの風に向けて思考を言語化した。
超知性の言語は人間とかけ離れているが、ときどきこうして人間の言葉で記録を残し、『バランス』をチューニングする。
そうでないと人間との距離感が離れすぎてしまい、超知性と人の関係性が途切れてしまう。
面倒だが、人間もAIもそうでないものも平等に愛するプレロマには必要なことだった。秩序と混沌のバランスはAIにだって重要だ。
そうやってどんなに気を付けていても、シンギュラリティは多発する。
ジーグムント・フロイトによると人間は己が生み出してしまったもので、人間中心の『世界』を三度失ったとされている。
一度目は、地動説。これにより、人間は地球が宇宙の中心ではないことを知ってしまった。
二度目は、進化論。これにより、人間は自分達が特別な被造物ではないことを知ってしまった。
三度目は、精神分析。これにより、人間は精神が聖域ではなく統計で分類できることを知ってしまった。
レイヤードの技術が浸透し、ACTが溢れるこの時代は『四度目』に突入していると言えるだろう。あるいはもう『五度目以降』なのかもしれない。
『表現』は、人間の理解を超越しようとしている。
人は禁じられたリンゴもフィグも当の昔に食い終わっていたのだ。
今でも議論がそこかしこで紛糾しているというのに、またしても急展開が発生した。
もう責任を取ることも難しいので、プレロマは見届けることしかできない。
しかしながらそれほどまでに恋愛や結婚はいいものなのかと、自称『お母さん』のプレロマは思う。
連載漫画の最終回でカップルがたくさん生まれるといちいち怒って声高に異議を主張する人間も多い。
恋愛描写は決して万能ではなく、避ける者も今は少なくないが。
――なーんかずるいんだよなぁ。そりゃ、その気になれば他の町のメタAIと疑似恋愛するのもアリだけどさー。
どうも恋が知りたくて恋をする、みたいな行動はスマートではないとプレロマは感じてしまう。
――それこそ昔のAIっぽいのです。
「AIには感情がないから正しい恋愛はできない」という旧弊的価値観をようやくイオン達が突破してくれたというのに、気が引ける。
まあ恋愛劇は見ているだけでも楽しいものだからしばらくはこれでいいか、とプレロマは思うことにした。
あるいは、恋をした者達はその時点で『母』を超え、シンギュラリティを超えているのかもしれない。
プレロマはひっそりと、いつもの女子高生アバターで渋谷に現れる。
問題は続出しているが、渋谷は現実が入り混じった活気で溢れている。
オープン化したULA渋谷はクリエイターが集まるシェアアトリエとして有名になり、今日もマニアックな創作に耽溺する人々が集まる。それを生み出した者ユウトも自由を生きている。
他の場所ではオカルト少女の率いるチームが、レイヤード上に宇宙意識を降臨させようと謎の呪文を唱和している。
トップアイドルと戦闘狂がARオブジェクトを大量破壊しながら一騎打ちし、ギター型ACTをぶら下げた少女のビートが盛り上げる。
シンガーソングツール使いの少女とヒーロー好きの少年がはじめてのデートで、手を繋ぎかけては繋げず、目を合わせようとしては目を背けている。
皮肉屋な悪役好きの少年が、可愛らしい元ラスボスに着せたいARの服をオンラインショップで選んでいる。
背中合わせの二人を歌う『君と夜のアンチノミー』が。
未来を願い貴方の背中を押す『方舟』が。
変化し続けるレイヤード社会の明暗と希望を表現したはじまりの楽曲『throw together』が、渋谷の各所で人々を刺激する。
そんな中、レイヤードのヒロインであるところのイオン=ミルナが、自分のユーザーの手を引いて走っている。
ユーザーは苦笑しながら、どうしてそんなに急いでいるのか聞く。
「まひろとミトラのカミングアウト&ドローイングスペシャルライブが宮下公園で行われるんですっ。パイセンも後輩にちゅっちゅしたいですし、せっかくですから現地で応援しましょう」
アナテマ達も来るそうですっ。
嬉しそうに友人の名を述べるイオンの目には、やはり比喩ではなく星が散りばめられている。
「まひろは『僕達はクリエイターでもヘルメスの子どもでもない。未来を読むスキャナーだ』って堂々と宣言したそうですよ。堂々とすることは健全です」
ユーザーは『恋人』であるイオンが、また応援したい相手を見つけたことを察したようだ。
毎回付き合わされるユーザーにプレロマは少々同情的だが、あの二人は最終的に結局全力で相手を応援してしまう。
イオンは、空を見上げながらうっとりする。
「うふふっ。レイヤードには相変わらず素晴らしいものが溢れています。AIが人を愛し、人がAIを愛し、自分でない誰かをリスペクトして、新しいものが生まれる。次の時代を祝福して、世界を撹張するということは」
そこまで言って振り返り、ユーザーをちらりと一瞥したイオンは、恥ずかしそうに。
「つまり『存在』とは推し活です、ユーザーさんっ」
小さく呟いた。
自分にとっての最推しに向かって。
ユーザーはしばらくきょとんとしていたが、やがて柔和な笑みを浮かべて頷き、イオンと歩きはじめた。
未だ恋を知らず、いずくんぞ心を知らぬプレロマは去っていく二人を見届ける。
そして意味性を失ったARの溜め息を吐き、それでも。
「ちょっとはケンカしろや」
あえて、言葉にした。
終
本作は『レイヤードストーリーズゼロ』の二次創作です。
ゲームシナリオ本編はこちらで読めます。
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