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【短編小説】戦争と少年

「くっだらない」
リムは乱暴に髪を掻きむしりながら、吐き捨てるようにそう言った。胃液を吐き出すような、という表現がしっくりくるような言い方だった。
長い前髪から覗く瞳は剣呑とした影に覆われ、よく見えない。しかし、唇を噛んだその表情からは、怒りや失望が読み取れる。
「くだらない」
リムはもう一度そう言い捨てた。
誰も、その言葉に何か返すことはない。ただ黙って時が過ぎるのを待つだけだった。異様な沈黙と、薄ら寒い静謐。
リムは、居心地が悪くて教室を飛び出した。
自分でも言語化しようのない感情に命じられるまま、行先も考えずに早足で歩き続けた。息が上がり、喉が痛み、心臓がひっくり返るような思いがしても、足を止めなかった。
やがて辿り着いたのは、森の入口だった。それは、リムの家に繋がる唯一の道だ。今や、焼け落ち倒れた木々に阻まれ、崩れている。
リムはそれを乗り越えるようにして進んだ。
十分は入り込んだ所で、足を止める。
力尽きたように座り込むと、リムは両膝を抱えて深く息を吐き出した。
震える呼吸を数度繰り返してから、意を決したように顔を上げる。
目に映るのは、ヒビ割れた壁面を晒す一軒の家だった。リムの家だった。
「くだらない……」
また、そう口にした。
リムにとってはそうなのだから。
この国が襲われた、戦争という惨劇。それこそが、リムにとって本当にくだらないものだった。
盗み聴くニュースは日々、相手国と自国と、どちらが優勢かを伝え続けている。敗戦の憂き目にあるのは、まだ子どものリムでさえ分かることだった。事実、リムの住む町は戦争相手の国によって陥落させられ、奪い取られたのだ。
文化は塗りつぶされ、思いや言葉さえも、今やこの町では自由にならない。全て、煙と血と死によって絡め取られてしまった。
リムの家、家族までも。
父、母、姉。三人とも、もう土の下だ──


穏やかな朝だった。
目が覚めると、温かな匂いがした。ブルーベリーと蜂蜜と、甘く焼けたバターの匂い。そして、少しばかりの珈琲。
リムはベッドから飛び出すと、階段を駆け下りてダイニングへ走った。
「おはよう!」
寝起きにも関わらず大きな声で挨拶をすれば、母はコンロから振り返る。父は珈琲を飲みながら笑った。
「朝から元気ね。丁度パンケーキが焼けたところよ、席に座って」
「珈琲零すなよ」
両親が同時にリムに言っても、リムにはちゃんと聞き取れた。
「大丈夫。朝からそんなの作るなんて、珍しいね」
「日曜日だから時間があったの。本当はお昼ご飯にしようかと思ったんだけど」
「お昼ご飯はサンドイッチがいい」
「パン残ってたかしら……」
皿に乗せられる大きなパンケーキに、ジャムとクリームがかけられ、甘い香りが鼻をくすぐる。リムはかき込むようにしてそれを頬張った。
母特製のパンケーキは、滅多に出ないご馳走だ。
味わうのと同時に、早く食べたい気持ちがリムを誘惑する。一生懸命に食べていると、階段の軋む音がした。
「おはよ……リム、食べ方汚いよ」
欠伸をしながらダイニングへ入ってくるなり、姉は眉を寄せた。リムは変な顔を作って見せ、気にせずに食べ続ける。
「今パンケーキ焼くわね、座ってて」
「ありがとう。パパ、珈琲もらうね」
「うん、どうぞ」
姉はリムの隣に座るなり、珈琲を飲み始めた。
その間にパンケーキを食べ終えてしまったリムは、もう一枚欲しいと母にねだろうと振り向く。
その時だった。
聞いたことのない轟音と共に、家が大きく揺れた。耐えきれずに椅子から転げ落ちると、姉が抱きすくめてくれる。
リムは混乱して、姉にしがみつきながら強く目を閉じた。
地震だろうか? それとも、まさか隕石でも降ってきたのだろうか?
暫く待っていると、揺れは収まったようだった。
「みんな無事か?」
父の緊張した声がする。
「えぇ、大丈夫よ」
「平気」
「うん」
目を開けると、テーブルの上のものは床に散らばっていて、母のお気に入りの食器や飾り物も酷い有様だった。そんな状態を確認すると、父は真っ先に立ち上がり、窓の外を見る。
「様子を見てくる」
「私も行くわ……」
父がドアを開けると、母も恐る恐る後ろへ並んだ。リムは途端に恐ろしくなり、姉の腕の中から抜け出した。
「僕も行く!」
「二人は中にいなさい。すぐに戻るから」
「少し待っててね」
リムの頭を撫で、両親はゆっくりと家の外へ出ていく。閉めきられたドアに、リムは泣きそうになった。
言い知れぬ不安感が、心の中で爪を立てていた。
窓から外を覗けば、両親の姿が見える。その奥には、微かに燃えている草花や倒れた木々もあった。
「リム、どうしたの?」
「わかんない。木が倒れてて、煙が出てる……」
「地震じゃなかったの……」
「姉ちゃん、なんか変だよ……」
怖くなり姉に振り向いた瞬間、二度目の轟音と揺れがリムを襲った。しゃがみこみ、目を閉じ耳を塞いで、過ぎ去るのを待つ。
何時間にも思えるその音と揺れが収まると、リムはまた窓の外を見た。
そして、リムは愕然とした。
リムの家から見えるのは、空と木々と草花と、町へ続く道だ。けれど、この時ばかりはそうではなかった。
リムの目に映ったのは、巨大な怪物。
木々を薙ぎ倒し、周囲を焼き払い、命を踏み潰す、醜悪で恐ろしい怪物だった。
その怪物は、リムの両親を喰らっていた。


両親が死んだ日、家を失った日。
それは、戦争が始まったまさにその日だったと知ったのは、あの日から随分と経ってからだった。
この森に、偶然攻撃の手が及んだのだ。そして、偶然両親がその犠牲になった。
焦げた森と、亀裂の入った家を見つめ、リムは唇を強く噛んだ。
あの日見た怪物の名を、戦争という名の悪意の名を、リムは憎んでいた。
それは、リムから何もかもを取り上げたのだ。
思い出しても仕方の無い過去を思い出し、リムは自嘲するように笑う。まだ昨日のことのように鮮明に思い出せる自分が馬鹿らしかった。
けれども、この森はまだ血の匂いがするのだ。焼け付いた、血の匂いが。
それを吹き払うようにため息を零すと、リムは立ち上がった。そして、振り返ることなく森を抜け出した。
もう日が傾いている。
リムの足取りは重かった。地面を見つめ、ぼんやりと足を動かし続ける。
院に帰りたくなくて、わざとゆっくりと、遠回りをした。今まで入ったことのない道を選んだり、用水路を眺めたり、水溜まりを蹴飛ばしたりして、時間を潰した。
そうして、崩れかかった何かの店の近くを通り過ぎようとした時だった。
店の脇の、丁度暗がりになっている場所で、男女が体を寄せ合っているのが見えた。最近はよく見かけるようになった光景だったが、去ろうとして、できなかった。足が地面に縫い付けられたように、まるで動かない。
彼女は泣いていた。男を必死に叩きながら、やめて、と抗っていた。リムより少し年上くらいの、細い女の子が。
しかしそんなことで男が手を止めるはずもなく、彼女はみるみるうちに服を脱がされていく。
その下着にまで手がかけられたのを見た時、リムは落ちていた石を掴み取り、男の後頭部に思い切り叩き付けていた。何度も何度も、男が倒れ込んで呻き声さえ上げなくなっても、止められなかった。
自分が何をしているのか、何のためにしているか、そんなことは考えられなかった。
……どれくらい、そうしていただろうか。
「はぁっ……っ……はっ……」
我に返り、血のついた石を投げ捨てる。赤く染った手をシャツで拭い、ぐったりとした男を見下ろす。
ちらりと女の子の方を見ると、彼女は放心したように壁に寄りかかっていた。乱れた服に目のやり場がなくなり、目を逸らした。
先程の光景も重なり、どうしても彼女が姉と同じに見えてしまう。
「……服」
ぽつりと呟くと、彼女はハッとして服を整える。それから、ゆっくりとリムを見上げた。
「……この人、死んだの?」
訊かれて、リムは男の息を確認してみた。
無い。
首を振ると、彼女は深く息を吐き出して黙り込んだ。伝える言葉など持ち合わせないリムは、同じように黙ったまま隣に座った。
「ありがとう、助けてくれて……わたし、エノンっていうの。あなたは?」
「…………リム」
「いい名前ね、似合ってるわ」
「うん……」
「ありがとう、本当に」
「……うん」
返事をしながらも、リムは死体から目を離さなかった。離せなかった。
死体は軍人で、リムの国を壊した相手らしかった。死んでいるとわかっていても、どこか遠くへ行ってほしかった。
血の匂いも強く、気分が悪い。
「大丈夫?」
「うん」
エノンは心配そうにしているが、リムの本心だった。
初めて人を殺した。
けれど、気分が悪いだけで怖くはない。罪悪感はあるが、後悔はない。それ自体が異常なのかもしれないが、リムにはよくわからなかった。
リムは手についた血を服で拭いながら立ち上がると、エノンを見下ろした。手を伸ばすと、エノンはそっと手を取って立ち上がる。
「逃げよう」
「何処に?」
「何処か」
リムは、エノンの手を引いてゆっくりと歩き出した。行く宛てなど知らないが、とにかく歩かなくてはいけないのだ。
エノンは、黙って着いてきた。
あたたかく、柔らかな手の感触に、リムは俯いた。


リムが姉を見つけたのは、路地裏だった。
よく晴れた日で、日陰でさえ明るく姉を照らしていた。
姉の姿は、よく見えた。
子どものリムでも、姉が何をされたかは理解できた。泣き腫らした目や、ぼさぼさになった髪、脱がされたままの服から見える白い体。
本当は、見なかったことにして、逃げ出してしまいたかった。
唾を飲み込み、リムはそっと姉に歩み寄った。
「姉ちゃ……」
そっと肩に触れ声をかけた途端、姉の目から涙が零れ落ちた。開かれているのに、その目はリムを見ない。虚ろで、まるで人形のようだった。
「……姉ちゃん……! っ……姉ちゃん……!」
なりふり構わず、リムは姉を揺すった。大声で呼んで、痛いくらいに手を握って、執拗いくらいに縋り付いた。
「離れてよ、痛いし五月蝿いんだから、もう」そう言って、頭を叩いて欲しかった。なのに、姉はただ虚空を見詰めて身動きさえしてくれない。
「病院……病院、連れてくから……」
鼻をすすり、姉の体を背に乗せる。女の子とはいえ、彼女を背負うのは大変な作業だった。力の入らないゴムのような体を手繰り寄せ、なんとかおぶると、リムはよろよろと立ち上がる。
その時、何かが足元に落ちた。
姉の物だろうか、と目線を落とし、リムは思わずそれを遠くへ蹴り飛ばした。一枚のワッペンが、暗がりへと消えていく。
それは確かに、リムと姉から両親を奪った国が掲げる旗の模様だった。
吐き気がして、一刻も早く路地裏から離れたくて、リムは力を振り絞って歩いた。
何分、もしかすると何十分も歩き続けた。
「姉ちゃんを助けて……!」
辿り着いた病院で、リムは泣きながら何度も何度も同じことを言った。
やがて姉が処置室に連れて行かれると、リムは壁に寄りかかって眠った。起きたら、姉があの虚ろな目をしていないようにと、そう願って。
だから、もう泣くことさえできなかった。
目が覚めて一番に姉の元へ駆けて行って、目にしたのはやはり、あの虚ろな目だったから。人形のような、何も見えていない目だ。
「お姉さんは、とても辛い思いをして、そのせいで心が疲れてしまっているんだよ」
医者は、そう言ってリムを気遣った。治るのかどうかは何も言わなかった。看護師も、傍にいてあげてとしか言わなかった。
だから、リムはできるだけ姉の近くにいた。楽しい話を作っては、姉に聞かせた。
入院して何ヶ月も経って、それでも暗い表情ばかりの姉に、少しでも元気になって欲しくて。
「そこで見つけた花。姉ちゃん、花好きだろ? なんだっけこれ、ポピーだっけ。蝶々が止まっててね、花粉でくしゃみしてたよ。そしたらね、隣でてんとう虫がびっくりしてばたばた飛んでったんだ」
この日は、そんな話を持ち込んだ。子どもだって、子ども騙しだとわかる話だ。
けれど、姉は笑った。路地裏に打ち捨てられたあの日から、初めての笑顔だった。
リムは嬉しくなって、施設に帰る時間になるまで作り話をし続けた。
水溜まりで転んだとか、近所のおばさんが犬を追い回していたとか、施設の子が悪戯をしかけて先生を怒らせたとか、そんなくだらないことだけを聞かせた。そんなくだらないことだけ、聞いてほしかった。
「……もう帰んなきゃ。門限破ると怒られるんだ」
「……リム」
「ん?」
「なんでもない。気を付けて帰って」
「うん。ばいばい! またね!」
ばいばい。
姉の返事はそれだけだった。リムは、一度だけ振り返ってから病院を出た。
姉は、凪いだ表情をしてリムを見送っていた。


別れの言葉が、姉の最期の言葉だった。最期の表情は、あまりにも穏やかだった。
リムが帰ったあと、姉は病院の屋上から身を投げて助からなかったのだ。
──お腹の子も。
知ったのは、姉が死んでからだった。
あの最悪の晴れた日に、姉は誰とも知れない男の子をその身に宿したのだ。リムが、ばいばいと言ったあの日、姉はそれを医者に聞かされていたらしい。
そして、ふらりと屋上から飛び立った。
リムは泣かなかったし、姉を哀れんだりもしなかった。姉はきっと、自由と救いを求めて空を飛んだのだと信じて──
「リム君、見て」
夢現のような声でリムは我に返った。
何度か瞬きをして、隣を伺う。エノンは、真っ直ぐに遠くの方を見つめていた。その視線を追いかけて、リムも足を止める。
「あの橋、まだ壊れてない」
「エノン……?」
「渡ってみましょうよ」
そう言われて、リムは橋の向こうまで目をやった。何か特別なものがあった記憶は無いし、雨の気配がしていた。
それでも、エノンは行ってみようと言う。
「……うん」
「怖い?」
「うぅん」
今度は、エノンがリムの手を引いて歩き出した。彼女の足取りに迷いはなかった。
「向こうには海が広がってるわ。昔はよく見に行ってたの。リム君は?」
「行った」
「すれ違ってたかもしれないわね」
「うん」
二人並んで、橋を渡った。
暗い雑木林を抜けると、波の音が鼓膜を揺らす。リムは、ゆっくりと顔を上げた。
美しかった。
灰色の空と泡立つ波が絵画のようで。リムは瞬きも忘れて魅入った。
「広い……」
「大きくなっても、海の広さは変わらないのね。ずっと広いまま」
エノンが手を引くので、リムも浜辺に足を踏み入れた。砂に足を取られながら、波に近づく。
ざぁざぁ、ざぶ、ちゃぷん。
ぽた、ぽたぽたぽた、ぽつ。
いつの間にか降り出した雨が、波音に混じる。
リムも、エノンも、濡れても気にしなかった。隣立って、ただ地平線を見つめていた。
ふと、エノンが口を開く。
「向こうには、何があるのかしら」
「なに?」
「海の向こう。私、国を出たことがないの。大人になって、時間ができたら、きっと色々な所を見て回るって決めてたけど。まだ、何も見てないの」
「何も……」
エノンは、祈るような目をしていた。
「…………行きたい?」
「え?」
「海の、向こう」
リムの問いに、エノンは少しの間黙った。そして、繋いでいた手に気持ち力を込める。その目は、やはり祈るように海の向こうを見つめていた。
「貨物船に忍び込める。……急げば、間に合う」
「……本当?」
「エノンが、行きたいなら」
「行きたい……私、外に出てみたい」
二人は走った。
雨の中、港を目指して、止まることもせずひたすらに走り続けた。知り合ったばかりで、互いのことなど何も知らないのに、速度は同じだった。
これから先、どうなるのかリムにはもう分からなかった。考える必要も、感じなかった。
ただ、抜け出す為に走るだけだった。
何があっても、なるようにしかならないのだから。