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エッセイ 『爪の行方(ゆくえ)』

monogatyでのお題[ゴールデンウィーク最終日の心情]について書いたエッセイ。

いかがでしょう。
やはり皆様、連休最終日は鬱ブルーなのでしょうか。

いつもいつも仕事まみれのわたしには、休みなど、ありませんので。




 ゴールデンウィークもいつもの通り仕事だったわたしにとって、最終日の心情も、なにもないのだけれど、そういえば―――と、心に留めた〝澱(おり)〟のようなものが、身体のどこか隅っこに、こびりついているように思えました。

 わたしは寝る前の日課、ふとんにくるまってお湯を飲んで、文庫を少し読んで、ハンドクリームを塗ってから、まだ寝るのに惜しい気がして、スマホをポチポチと触っています。

 淡い手元灯は、もう消して。スマホのバックライトは最低にしなきゃ寝付きが悪くなりますし、明日だって仕事なんだし早く寝るべきなんですが、―――眠たくない。

 いつも邪魔してくるゴールデンレトリバーの彼は、どこかへとスヤスヤと旅立っていて、それに窓の外は、今夜は嵐で。たぶん、明日のお散歩はムリなんじゃないかと。ならば、少しくらい夜更かししたっていいやんかって。そんな風に思っていて。


 わたしは、道具には〝命〟が宿ると思っています。特に大切に使っているもの、思入れがあるものなど。スピリチュアルな意味ではありません。ただ、〝命が宿る〟のです。こころ、と言い換えてもいいのでしょうか。

 命の定義は様々ですね。生物のように振る舞うウイルスだって、生物、非生物で論議が分かれることですし、結局は[自己増殖能の有無]、ということになるのですが、そういった意味では、道具だって非生物でしょう。だって、戸棚の菜箸が、次の日、赤ちゃん菜箸を産んでいたなんて、見たことがないでしょう?

 ちなみに、ウイルスを生物だと主張する研究者は、「遺伝情報を持ち、進化するから」、つまり、DNAやRNAを構成要素とする遺伝物質を持ち、感染・増殖を繰り返す中で遺伝情報が変化する現象を指して、生物だと主張しているようですね。これならば、道具にだって、同じことがいえるのかもしれませんね。


 〝もの〟や道具に、遺伝情報が書き込まれる核酸タンパクはありません。でも、そこにないだけで、道具を作る職工の手に、見極める目に、道具を扱う職人の技に、道具の情報は、刻まれているのです。道具は、進化します。刻まれた情報をもとに、改良され、分岐し、様々な用途、形に、技に合わせて。ここに、わたしがスピリチュアルな意味合いでなく道具に〝命が宿る〟、と主張する本意があるわけなのです。

 では、〝こころ〟はどうか。これについては弱ります。なぜって、わたしには、こころ、というものがなんなのか、皆目見当がつかないのです。どなたかご存知なれば、教えていただきたいくらい。

 とはいえ、道具の心(こころ)に薄々気付いていないというわけでもない。たぶん、あるのだろうなあ、と思うことが多々あるのです。そう。冒頭に挙げた、わたしの〝こころの澱(おり)〟。喉元になにか、つっかえたような、そんな不快な違和感。それを、布団にくるまりながら、考えていていたのです。


 わたしは布団の中で手をこすり合わせてみました。ハンドクリームを塗った手と指は滑らかで、布団の中で、温まっています。それから、指を、一本ずつ揉み、クリームを浸透させながら、指が無事であることを確認します。十本中、九本の無事を確認したわたしは、左の親指を布団から出して、鋭利に削がれてしまった爪に、スマホのライトを当ててみました。左の親指の爪は、人差し指側の一部が、すっぱり抉れるようになくなっていて、下のピンクの肉がみえています。幸い、血は出ませんでした。うまく、爪だけ削がれたようです。露出した肉に触れると、痛くはない、ただひどく敏感で、鋭敏になった触覚は、布団が触れる刺激ですらジンジンと、まるで熱い鉄を当てられたかのように皮神経にさわります。ピーマンの千切り、そのときに、爪を削いだのです。


 わたしは、冷蔵庫の野菜室を満載にするのが大好きで。でもそれ以上に、満載の野菜室を空にすることを、たまらなく愛していて。

 だから、週末なんかは、大量消費を目的とした常備菜を作り置き、野菜室を空にし、仕事で溜まったストレスも空にしているわけでして。今日なんかも、朝からソフィア・コッポラのTシャツを買いにユニクロヘ行った後、大量に備蓄?された野菜といつもの格闘を始めたわけなのです。

 ごぼうは、きんぴらと漬物。ナスは、鰹節と煮浸し。ピーマンは、細切りにして炒めてフジッコで和える。そのピーマンが、だめだった。

 皆さん、ピーマン千切り、どうやって切りますか? 多くの方は、縦に割って種を取って、ツルツル表面を上に包丁をトントコ―――。

 ……ですよね。でも、刃、滑りません? イノは、滑りました。盛大に滑りました。そして、爪を一部持っていかれました。

 爪、ですか?
 
 見つかりません。たぶん、ピーマンと一緒にフジッコと和えられてるのでしょうね。そんなことはどうでもいいのですが。

 包丁を、随分前から研いでなかった。それが、いけなかったのだと思います。

 その包丁は、もう8年は使っているもので、わたしにとって、まさに命の宿った道具だといえるもので、安物ですが、まめに研いで手入れしていたはずなのに、近頃は、手入れ怠っておりました。というのも、京都錦市場にあります老舗の包丁屋で、刃物全般を買い直そうと随分前から思いついていたものの、生来の出不精で買いにも行かず、かと言って、どうせ買い替えるから、と面倒くさがって既存の包丁の手入れも手を抜いてしまっていたのです。

 包丁は、鋭ければ鋭いほど、切れれば切れるほど、安全、なまじ切れない包丁の危険はわかっていたはずなのに、いざ身を切る(今回は爪だけでしたが)ことがなければ省みることができないわたしが情けなくて、これが〝澱(おり)〟のように心に溜まっていたのです。

 いや、もしかして、道具の心が、そうさせたのかもしれない。心の通った道具が、慢心や怠慢にかしぐわたしに注意を発したのかも。気をつけなさい、と。それにしたって、爪を削ぐのはやりすぎでしょ、爪、大事なんだよっ! とも言いたくもなるが、そうでもしないと己を省みる気が起きないわたしだから、道具の方だって荒療治を敢行したのだろう。手入れもろくにしない持ち主を思いやってくれた包丁に、まこと感謝しかない。

 ともすれば、この程度で済んだのだって、道具の心遣いのおかげかもしれなかった。先日だって、固いカボチャを切っていたし、アボカドの種を包丁の根本でグイッっと取り出すのだって、今日みたいな危険はあったわけだ。わざわざピーマンで戒めてくれた包丁の心遣いに改めて感謝しようと思う。次の休みには、研ごう。感謝を込めて。そう思った。


 道具には、命が宿っている。

 わたしには、やはり、そう感じるのです。



[おわり]

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