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指定難病を患った話7.【自分と向き合う】

転換性障害を克服するために
過去を振り返って根本原因を探るお話。

前回までのお話で、
解離の原因となっている心の葛藤やトラウマ、
ストレス要因をカウンセラーと
二人三脚で探っていくことになりました。

まずは発症前後のストレス要因や
ライフイベントでそれなりに
関係してそうなこと。

2017年1月 東京→愛知転勤
2020年4月 結婚
20年7月 愛知→東京転勤
20年〜21年 結婚式3度延期
21年4月 昇格
21年11月〜大規模プロジェクトを担当
21年12月〜夫婦喧嘩増
22年2月末 症状を自覚
22年6月26日 東京→愛知転勤

見方によってはサラリーマンにとって
ごく普通の生活。

それから幼少期に遡って
自分を振り返りました。

転勤族の家庭に生まれ、
世に言う英才教育ばりに
習い事をさせられた幼少期でした。

月曜日は習字、火曜日はピアノ、
水曜日は水泳、木曜日は塾、
金曜日はサッカー、
土曜日は家庭教師がきて、
日曜日はテニスという感じで
勉強と運動に明け暮れていました。
一人っ子、虚弱体質で
アトピー性皮膚炎や小児喘息を治そう、
そして勉学もしっかり
身につけさせようと
今思えば愛情が故のこと
だったのかもしれません。

そんな生活を続けていたら
小学校3年生の頃に
首を横に振る癖がついてしまいました。
今思えばチック症なのですが、
その頃はそんなことも知らず、
両親からお願いだから治してくれと
言われ続けていたのを覚えています。

チック症が治った頃、
次は家庭教師の先生と
話している最中に先生の顔が
異様に小さく見える現象に見舞われました。

先生の顔を見つめていると
米粒ほどの大きさに小さくなっていき、
それにあわせて周りの景色全てが
小さく歪んで見えていました。

当時は目の病気だと思って
眼科で診てもらったのですが
「異常はありません」「わかりません」
としか言われませんでした。

その後、高校生を卒業する頃まで
この不思議な現象に悩まされていましたが、
物が小さく視える日の前日の夜は
決まって黒くて丸い惑星のような
球体に押し潰される夢を見ていました。

幸い、物が小さく視えるからといって
生活に大き支障はなかったので
上手く付き合っていましたが、
ある時父親が外に連れ出してくれ、
空を見上げるという解決方法を
編み出してくれました。

空はどこまでいっても
小さくなりようがないので、
ずっと見上げていると
次第に元の視界に戻っていったのでした。

この現象が「小視症」
または「不思議の国のアリス症候群」という
珍しい名前がついた
メンタル疾患であることを知ったのは
20歳を過ぎた後でした。

今考えると勉強嫌いの自分にとって
この頃の習い事が苦痛で
仕方なかったんだと思います。
物を小さく視えるようにすることで、
脳が自分自身をストレス要因から
遠ざけていたと考えると
人間の身体にはつくづく驚かされます。

この頃から解離の片鱗が
自分の身に起きていたんだなと考えました。

中学生になると周りの影響もあってか、
反抗期を迎えました。

それまでの抑圧された
環境に反発する気持ち、
そして幼少期から悩みだった
親から遺伝した身体のシミ、
色んな不満の矛先が
両親や親族に向けられました。

ある時はどこから拾ってきたかも
わからないバイクで親戚を轢いてしまったり、
ある時は更生させるために家に来た
両親の知り合いにむけて物を投げたり、
ある時は家でガス缶に火をつけようとしたり、
とにかく家では反発を繰り返し、
外では夜中まで友人たちと徘徊し、
ろくに学校にも行かず。
そんな生活が続いていました。

そんなある時両親から
「海外旅行に行かないか?」と提案が。

1週間の旅行だと思って
支度して飛行機に飛び乗りました。

今思えば反抗期なのに
旅行は一緒に行くなんてなんて
可愛らしい反抗期。

旅行最終日に両親からこんな一言が。

「お前の帰りのチケットはないから
明日からこの紙に書いてある住所に
このお金で暮らしなさい」

「どういうこと?!」

何が起きたのかわからないまま
荷物と一緒にタクシーに乗せられて
知らない家に到着。

そこから6年間の
オーストラリア生活がはじまりました。

ここでの生活はまた別機会にでも。

日本に帰国してからは4年制の大学に通い、
卒業してしばらくはバンド活動や
フリーではじめた仕事などフラフラした生活。

そんな矢先に父親が癌で倒れて、
「お金を稼がねば」、「社会に属さねば」
という意識が芽生え、
知り合いのご縁で
会社員として働くようになりました。

入社して1ヶ月で東京から愛知に配属となり、
2年ほど経った頃に今の奥さんと出会い結婚。

喧嘩の絶えない2人で、
婚姻届を出しに行ったその日も
喧嘩してたくらいですが、
育ちも文化も考え方も
これまで触れ合ってきた人種も
全てが違うので当たり前かもしれません。

私にあう人なんてこの世にいないのでは、、、
と思っていたのですが、
拾ってくれたのが
よっぽど嬉しかったんだと思います。

それからまた転勤して
東京に2年ほど住む事になり、
最後の一年で両手足の筋力低下に気付き、
今に至るという流れでカウンセラーに話すと、

「それだけ色々あれば
手足も動かなくなりますよ」と。

そしてカウンセリングで回数を重ねる毎に
自分に対する気付きが増えていきました。

抑圧されていた環境下で
母親の機嫌を伺っていた、
そしてそれは母親を喜ばせないといけない
からいつしか人を喜ばせなければいけない
という思いに変わり、
喜ばせることができないと
自分が嫌われてしまうのではないかという
不安な気持ちを作り出していた。
それが結婚を機に母親が妻に変わり、
トラウマが呼び起こされていたという仮説。

夜中に目が覚めてここはどこなんだろう?
という錯覚に陥ることがよくあり、
ある時は仕事先のホテルで目が覚めて
小学生の頃に住んでいた
神奈川県の家のベッドにいる錯覚をしたり、
ある時はオーストラリアに住んでいた頃の
ベッドで寝ているような感覚になったりと、
幼少期から転勤を繰り返し、
海外で違う言語を話していた時期も
あったので本当の自分を見失っている仮説。

などなど。

こういったカウンセラーとの気付きとあわせて
薬や他の治療法もネットで調べに調べて
院長やカウンセラーと相談していました。

TMS治療
USPT
EMDR
電気痙攣療法
催眠療法
などなど…

この病院ではセルトラリンと
エビリファイという
薬を処方してもらったのですが、
セルトラリンは副作用で余計に不安になり
パニック発作が出てしまったので中断、
エビリファイは効果を感じられなかったので
1週間で辞めました。

そんな通院を3ヶ月ほど
続けた22年10月上旬
私が記録用に作っていた
体調記録簿をみて院長から

「転換性障害でこんなに徐々に筋力低下が進行していくのはあまり聞いたことがない」「処方薬もカウンセリングも全く効果がみられないのでもう一度病院で身体の検査をしてみてください」「これまで受けてない脳のMRIと神経伝導速度検査をしてもらえるように紹介状を書きます」

このまま改善していくとばかり思っていたので
あまりにも唐突な言葉に驚きました。

まさかまた身体の病気が
不安になる時が戻ってくるとは。。。

それから数日後、
家からほど近い総合病院で
検査をしてもらうことになりました。

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